ヨーロッパと日本の私

ヨーロッパで体験した事、等々

水無月の満月・後記

        政雄さん、お誕生日おめでとうございます。

心臓病が安定しているのですね、、お元気そうなようすが拝見できて心から

うれしいです。ひとえに、千代子さんとのチームワークが効果を発揮しているのを

知り、自分の事のように嬉しく、さらなる拍手を送っています。

真っ青な海、空、緑豊かな山、その空気と微風は体力回復に最高の場所ですから、

ドンドンお出かけくださいね。<宝の松>も元気に育っているのでしょうね。

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千代子さん、お誕生日のお祝いをお月様も届けてくれたのですね。さすが、です!!

 

メールと写真を引用する事、お月様とも相談して共有しますので、よろしく !!

政雄さんの誕生日に98%満月と知り、ワクワクしながら海面に反射するだろう月光を期待して高台でしばし待機、残念ながら曇り空・・・気落ちしながらの帰途、ヤシの木の影から満月が顔を見せてくれ気分一転、

         「お誕生日プレゼントありがとう」

雨の降らない季節なのに、やはり異常気象でしょうか。遅れても降った一滴の雨に

感謝しているようすを想像しています。

日本は<梅雨入り>で、毎日のように降り、湿度が高い上に、今年は<マスク>

をかけての外出です。毎年熱中症を懸念する夏が、<マスク>使用で負担が大きく

体調管理を強いられる長い夏への挑戦です。

Covid19による警戒事態が6月21日まで 延長されたスペイン。一方、外出

制限の段階的緩和で賑わいを取り戻しつつある街並み、特に海辺にはこの日を待ちわびていた人々が繰り出しています。マスク姿のスペイン人が

当たり前の光景です。

私はまだまだ感染の恐怖を感じながらも草花に触れ波音が聞ける日々を迎えられたことを心からありがたいと思います。

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野性的なEl Confital,潮の匂いを満喫でした。   山歩き、おにぎりで一休み

 

どうぞ、皆様にクレグレもよろしくお伝え下さり、油断なきようお過ごし下さい。

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愛犬、Bella & どうぞ

この名前を呼ぶだけでも、とぶように駆け寄ってくる姿が目に見えるようです。

Bellaはイタリア語で<きれい・すばらしい >そして、どうぞは<日本語>のどうぞ。

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犬を好きな方は理解いただけると思います。私達夫妻の愛犬の話をお読み下されば

ほんとうに幸いです。

左が母犬のベラ、右が娘のどうぞ、どちらも長生きで、ベラは15才、<どうぞ>は

17才で逝きました。典型的な雑種、ベラは少しコリー種が入ってるかも?どちらも

大きな犬でした。

https://www.google.co.jp/maps/place/Camino+Espigon,+31,+38759+El+Paso,+Sa

 

   <Google map の Street viewで私達の家もごらんいただけます>

土地柄、家はアチコチに建っていて敷地の区切りもあるのかどうか、犬を飼うのが

現地の習慣になかったのは、放し飼いしているニワトリや野菜畑を傷める意味から、

飼う人は短い2m位の鎖で繋いでいました。それは家畜を優先する暮らしのため、

必然的に習慣化された事なのでしょう。

 

外国人が住み始め、土地を仕切り外部からの侵入を塞ぐため、網を張りめぐらし、

大きな敷地内では放し飼いするのは現在の犬好きな人達の条件です。

 

<眼癌>と診断された主人は、一つの目を摘出後、残ったほうも急に視力が落ちて

<半盲>になり、番犬がいれば、誰か来ても吠える、、と言ってた頃、近所で立ち話を

していたら、ベラがスタスタと近づいて来たと言います。誰の犬か分からず聞きまわったら、ドイツ人の自然治療の先生で、留守の友人宅を見に来た間に、ベラが道路を

渡って人のいる所に行ったらしい、自分は高齢だし、よかったら<アゲル>と。

その日から、ベラは主人の大事な相棒となりました。

 

ある日、床に血痕があり、後をたどるとベラの出血で初潮でした。私達はそれまで犬に

関して、なにも知識がなく近所の人達に教えてもらいながら、獣医、予防注射、餌等を

覚えて本格的に動物・犬と暮らすようになりました。誠にすばらしい経験の始まり

でした。

その直後のオス犬の素早い行動など想像もしなかった私達でしたが、数週間後には、

ベラのお腹はダンダン大きくなり、落ち着かず穴を掘ったりして、動き回るので

出産が近いのかもと、主人と話してテラスの大きなジャカランダの木の下に、これも

大きな箱の家を用意して、ベラが安心するようすを見て、ドアーを開けて寝ました。

夜中、度々覗いていたら、顔を上げて苦しそうな時、赤ちゃん犬が無事に産まれ

ました。主人は近くに来るのが怖いのかも、私は次のも、又、次のも、4匹の赤ちゃん犬でした。ベラの疲れと満足そうな表情に私は感涙しながら、掌に載せて温かい生命を

実感して、ベラ、よくやったねぇ、オメデトウ、ありがとうと繰り返しました。

ベラの相手は、家から300m位の坂下に住む南ドイツの夫妻のかもと聞いていたの

です。次の日、電話したら、間違いない事、直ぐにも獣医の所に行き、赤ちゃん犬を

薬殺してもらおうと言いました。

主人の悲しみ、私自身も解決方法もなく、その夫妻に同意した時、主人がいきなり

<Bitte-どうぞ>と叫びました。元気そうなのを一匹選んで残したのが<どうぞ>

です。

その夫妻と私は3匹の赤ちゃんを包んで、車で走り始めたら、ベラがついて来ました。

赤ちゃんをどうするのか、、返して、、と。約 200m上の自動車道に入り、ユックリと走って、ベラが家に引き返すのを待ったのです。獣医はドイツ人夫妻を知っていて

<なぜ避妊手術をしない、惨い>と言ったそうです。その時私達夫妻も実に無謀な

罪を犯した事を大きく反省してベラに謝りました。

 

<どうぞ>はスクスクと育ち、父犬に似て大きな犬になり、ベラがしっかりしている

ためか、のんびりとした性格で、皆から好かれました。私は自動車に一緒に載せて、近所のドイツ人女性達の散歩に、毎週土曜日に同伴するようになりました。

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山の中は、人も動物もいないので、犬はリードを付けないで、自由に動き回り、

大喜びでした。遠くに行かないよう、折々は集まり、水を飲み、おやつを上げるの

です。何年も続いた、人にも、犬にも最高の時間だったと確信しています。

 

その間には、広大な土地の境界線に網を張る工事も済み、ベラもどうぞも存分に

遊べる庭で、トカゲ、ネズミを追いかけたり自由に動けて元気な毎日でした。

でも、ある日、<どうぞ>も出血、ベラの二の舞をさせたくなくて、気をつけていましたが、<どうぞ>も近所のオス犬の子を妊娠したのです。

一部を竹のドアにしたのが壊されていて、そこから出入りしたのでしょう。

大きくなる<どうぞ>のお腹をみて、早めに納屋の中に、たっぷりと場所を作り、ここで産みなさい、そばにいるから、と。

その夜は、ベラの経験もあり、近くにいたら、一匹目が無事に生まれ、又、又 産まれ

<どうぞ>も慣れたようす、私も少し横になるから、と。 数時間後にみると、元気

そうな子犬が6匹でした。私達は、妊娠した時から、動物愛好会を通じて、貰い手を探していたのです。しばらくは母犬の側で育ててからがいい事は、みんなが同意してくれました。

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(どうぞ)の赤ちゃん犬達に、なんとベラが母乳を上げていたのです。そんな事が

あるのか、とにかく、驚きの連続です。<どうぞ>自身が母親になりきっていなかったのでしょうか。おばあちゃんのベラ、母犬のどうぞ、そして6匹の子犬を喜ぶ主人と共に私も他の事はなにも手につかず堪能する数週間でした。

 

主人の病状は年々悪くなりました。ベラもどうぞも気を遣う、私も雑用が増えて時間が

不足、散歩もいつも一緒に行く近所の人に頼んでも、しかし、ベラもどうぞも主人の

側がよかったのです。主人に向ける、この親子の深い信頼を教えられました。

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主人が亡くなった直後は、現地、ドイツ、日本へと連絡や手紙だけでも大変な仕事で

犬をかまう事さえできなかったある日、ドイツの友人と泣きながら電話していたら

ベラが、近くに座り込んで私をジッと見つめていたその目にドキリとしたのです。

ゴメン、、ベラと言いながら庭に連れて行き遊びました。ベラは、取り込んでいる

連日をすべて見て、主人のいない現実を感じていたのです。

急に元気がなくなったので、行きつけの獣医さんでレントゲンをかけたら、大きな

癌ができていました。苦しみながら、追うように、主人の亡き13日後にベラも

逝きました。主人の後を追ったのだと信じた私、ベラを知っているみんなも同じ思いで、悲しみはさらに重なりました。

家族の一員の感覚を持ち、亡夫が<主人>である事を最初の出会いから知っていた、

私は散歩に行き、食事を作り、てっきり私の側にいる存在と思っていましたが、

長い月日を通じてベラは亡夫を<吾が主>として生きていた事を知り、ベラにも

及ばない未熟な自分だったのを知りました。一筋に役目を果たした立派なベラでした。

 

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その夏、ポカンと穴の開いたままの毎日は(どうぞ)と私に慣れるための時間が

必要でしたが、私はドイツでの行政や住まいの処理があるため、近所のドリス夫妻の

好意に甘えて(どうぞ)を預けて出発しました。2週間の予定中は、山積みされた用事を片付けるのです。その間にドイツで私は<不整脈>を発病して、不調の体で帰宅が

やっとできました。一方(どうぞ)は、ドリス宅の頑丈な網の下の石を掘り起して

200m上の自分の家に帰って、ドリスはその都度長いリードを、持って迎えに行く、

そんな日が数日だったそうです。どうして、あの大きな石を掘れたのか、今でも話し

ます。家には誰もいないのを理解してから落ち着いたと聞きました。

この夏以降(どうぞ)をどこにも預けない、私も極力自宅にいる、と決めました。

もし、どうしても必要があれば、誰かに寝泊まりしてもらう、、事としたのです。

誰に頼むか、新たな問題も、ドイツから、友人、知人の紹介で時間と共に解決できて、

6か月後は、テネリフェの大学病院に<カテーテル検査>に一泊、大阪の 母のお見舞いも15日間の旅程でした。日本に滞在中も夢をみる(どうぞ)の吐く息に目が覚める、度々の経験から(どうぞ)と私は一体感をさらに強めていたのです。

番犬としての効果も充分覚えてくれて、私は数年間を独りで住む生活に慣れたのです。

近所の人達との散歩も定期的になり、私の心臓病もかなり安定して、野菜畑を楽しみ、

海水浴に、山歩きはいつも(どうぞ)と一緒でした。大きな犬なので、自動車に飛び

乗る後ろ足が重くなった時、近くを歩く朝夕の散歩に切り替えました。

もう<イヤァ>と座り込む時にも、せめて10mでも歩いてほしいと願ったのは、生きて

いてほしい、私の願望だったのです。冬は部屋の中を温めて、オムツをして、そして

食事にも配慮して、すべてを(どうぞ)いいようにと考えました。

家の外にも行きたがらず、動きが辛そうになり、獣医チェザーに来てもらいましたが、

触診で大きな癌のある事、ベラと同じように苦しむのかどうか、薬をもらいました。

周りの人達は<安楽死>を進めましたが、私は最後まで看ると決めていました。餌も

水さえほしがらなくなる数日後、痛みが酷くなり、声を上げて苦しむので、(どうぞ)もういいね、朝になったらチェザーに来て貰おうねぇ、、と腕に抱え込む繰り返しの数時間でしたが、猛烈な声を上げて、頭をコトンと落とし、私はなんども叫び、呼び覚まそうとしましたが、うなだれたままです。私は鼓動がある間は(どうぞ)は生きているのだと、その心臓の響きが消えるまで腕の中に包み一緒でした。よく頑張った、、

よく頑張った、、と褒めつつ、アリガトウ、、を繰り返しました。

ベラの後に入るように、大きな枇杷の木の下に用意した場所に、きれいな白い布に

包んで、ドリスにも来てもらい数人と一緒に午前中に埋葬しました。

 

思えば、(どうぞ)は私の人生で唯一の<誕生と死>を体験した生命でした。

17年間にあったさまざまな日々は、すばらしい思い出に満ち溢れ、新鮮で美しい

映像となっています。

      心から、ベラ&どうぞに深い感謝と冥福を捧げます。

            合掌!! ありがとう!!

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水無月の満月・ストロベリームーン

     気温急上昇、各地で30度を記録して、真夏日和です。

マスクを着用して外出すると、蒸し暑くて外したくなりますね。感染予防と並行して

この長い夏を熱中症も充分考慮しながら、無事に乗り越えましょう!!     

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6月の満月は,きれいな名前のお月様です。みなさんはクッキリとした丸い姿を

みられましたか。

ラス パルマスの千代子さんと政雄さんはどんなだったのでしょうか。

写メールが入れば後記しましょう。

La Palma島からは、例年になく、 珍しい雨がしっかりと降ったとの、大変うれしい

メールがありました。乾ききった土を湿らす最高の恵みを喜ぶ人々を想像します。

 

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(梅の日)、6月6日、赤みを付けた大きな梅を店頭でみながら、この季節を迎えて

忙しかった母を思いました。梅を干すタイミング、雨でシソの渇き具合が、等。

そして、私も昔からの日本の習慣を少しでも多く知りたい、と始めています。

ラッキョウ、新ショウガ、梅>分量は少しでも試しています。猛暑の夏に爽やかな

食感を自家製で満喫できればうれしいでしょう。

 

学校に通ったいた事は、夏服のアイロンがけ、急に身軽な雰囲気も好ましく、母は

単衣の着物、外出の時の薄紫色のロの着物と軽い帯に,母の美しい後ろ姿をはっきりと

覚えています。現代のように暑くなかったのでしょうか。着物は汗でいたんだのでは?センスでさえ、あまり使わなかった?そのキチンとした美意識を懐かしみます。

 

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 父は趣味の<アユ釣り>でした。その支度を始める頃は、イソイソとうれしそうな

父の姿もクッキリと浮かび上がります。毎年近畿地方のいろいろな河川に、仲間の

人達と金曜日の夕方から日曜日の夕方まで、夏の父はほんとうに満足そうでした。

帰宅すると、母は今年の<アユ>をかかりつけ医師に届けて、父の健康を喜んでもらったのです。家族は貴重な、貴重な季節感一杯の美味を満喫しました。

父の<釣り日記>は細かく書き尽くされていて、いかに、大事な趣味だったのか、

読みあさりました。静かな父が自分の時間をどれほどに大事にしていたのかよくわかります。母は<釣り日記>を大事に保管していて、子供達が父を偲ぶのを願ったのです。

 

一年の半分近くを過ぎてみれば、今年は予想だにしなかった新型コロナウィールスに

世界中が震いあがり、収束の見えない不安を持って、今年の夏を過ごさねばなり

ません。願わくば、来年の今頃はワクチンも開発されている事を祈りましょう!!!

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亡き後、、

<主人の祥月命日>を先日、ブログに掲載しました。もし、その記事が目に留まられて

読んで下さったのでしたら、心より厚くお礼申し上げます。

        主人の良い供養となります。ありがとうございました!!

 

北ドイツ出身の主人は物静かな人でした。地元の人の事を(笑うのは一年に一度)

と皮肉を言われるぐらいですが、これは、長い寒い北海の冬を黙々と生きなければなら

ないから、と初めて主人の家族を訪ねた時に思いました。冬の日照時間もごく数時間

です。日本は極寒の冬でも明るい太陽が十分です。気候が人間をいかに左右するか私自身も意識するようになりました。

主人はですから、夢であれ事情が許せば、ラパルマ島のような明るい太陽の照る場所で住みたい、年金者になったら、そうしたいと考えて、古民家を買ったのでしょう。 

旅行者である事と居住者となる事は大きな違いがあります。資産家はアチコチに別荘を持ちますが、私達には選択肢は一つ、ですから、年金者になる迄は一年の休暇を大事に使い、痛んだ家の修理、庭の手入れ等をコツコツと始め、住み始めた頃はそれらしい

一軒屋でした。その上に、二人とも外国人なので、近所や地元の人々とも仲良くなり

たいのです。1980-90年代はヨーロッパからの旅行者は増えて、中には永住を希望する

人も多くなりました。その15年位前には、ドイツ人の作家が住み始めて、現地事情を

書いた本を出版しましたが、貧困と無教育を批判されたと地元から嫌われて、ある日、放火され、島から出ていったのです。島民は決して貧しくもなく、教育はそれほど

必要がなかった、戦争を知らない平和な暮らしが400年以上続いて島なのです。

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   <私達の家はいつでも解放されています、ジャカランダの木の下を入って下さい>

 

職業柄、ユ―モアのあった主人は、特に覚えにくい現地の人の名前に困り、ある時、

みんなに二イックネームをつけました。<Tomas-grande,Tomas-poco gordo,Tomas de

pan>、的を得たアイデアは喜ばれて、その呼び名はたちまち浸透していました。自身のドイツ名は、英語ならへンリー、スパイン語はエンリケ、だから、<enrique loco=

エンリケのばか >El Pasoの<Bar Central とスポーツ゚クラブ>は仲間の誰かがいる

場所、会いたければ、飲みたければ、ほんとうに様々な話題を楽しめます。

特に私がまれにもアジア人で珍しいので、主人は無意識にもかばう姿勢を持っていました。誇り高く、正々堂々と現地に溶け込んでいけるように配慮していたのです。 

葬儀の時、それがすべて表面化していたのでしょう。人々の真直ぐに示してくれる感情は胸深く留まりました。

 

火葬場で、遺灰を大小の2個に分けてほしいと依頼したのは、大きいのを< El Paso

墓地>小さいのを自宅にと考えからです。後日、日本に帰る時にと。

El Paso墓地には、毎日、毎日、午前中に行きました。庭に花もたくさん植えました。又、友人や近所の人も一緒にお参りしてくれました。

その半年後、山の上のバーベキュー場で約80人を招待して<お別れ会>を盛大に

しました。最高の天気で、パエリア、焼肉、地元産のワインとケ―キ、友人達と私の スピーチ、きっと主人が喜んだに違いない 半日でした。

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私は仏教徒として、主人の冥福を祈りたく一回忌、3回忌、7回忌迄、自宅でささやかな供養を食事をしながらみんなと続けました。

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<山羊の会話、もうエンリケはこの緑の島にいない? そう、しかし、彼は我々の

     思い出の中にいつもいるよ、、3回忌には20人の来客でした>

 

周りの人達は私ができるだけ一人にならない様に、お茶会や食事、コンサ―ト、山歩きに誘ってくれましたが、私は、2匹の愛犬とまだ解約すべきドイツの住まいもあり、悲しみながらも少しづつ前を向いていたのでしょう。ドイツ行きも度々となりました。

 

ある日、快晴、青空の海で背泳ぎをしていたら、急に主人を大西洋に連れてきたい、、と思いつきました。それも、北部の一番きれいな(puntagorda村)の海、日本よりこの大西洋の海を主人は喜ぶと信じたのです。数日後、観光客の(イルカとクジラ)を見る船に乗り、花を一杯詰めた小さな遺灰を静かに海面に降ろして<サヨウナラ>と

合掌しました。そして、イルカやクジラが泳ぐ大海原をみながら、主人がどんなに喜んでいるかと、ほんとうに自然に帰った主人が、解放されたと清々しい思いでした。

外国人の中では、その後、同じような海葬を行っていると聞きました。

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平行して不動産の売却もあり、いつでも本帰国が可能になる用意をする折、7回忌の時、<El Paso墓地>から、ドイツの両親の近くの<Emden墓地>が正解ではないかと考えて義弟宅に相談しました。それは、いつの日か、私はいないし、友人や近所の人達も

高齢、誰も訪れないお墓は寂しいと思ったのです。Emden なら義弟家族が来てくれ、

それこそが主人の最も喜ぶ自然な事だと考えました。飛行機に乗る遺灰の壺は承諾書が

死亡証と一緒に発行されたので手続きも不必要で、私は2011年の秋、出発しました。

国鉄は一等車を予約、大きな袋の中の主人を、良い景色の見える場所に据え、一緒に

景色を見ながら、今、MuensterこれからがOstfrieslandに入るよ、、とか話しながら。

まさに、小さなEmden市を後にし、長い人生をまっとうして、55年振りの帰郷でした。

今年初めに亡くなった義弟のお墓と目と鼻の先に埋葬されています。

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第二次世界大戦を身近に経験した人、<平和>を願い、自然派を貫いた一人の

ドイツ人が安らかにいてほしい、、その思いから、考え抜き、決定した、私の判断が

正しかったかどうか、しかし、すべては、私にできる精一杯の事だったのです。

 

アジア、日本が好きで、来る21世紀は中国の時代だと、いつも話していた言葉が

鮮明に思い出されます。変動する世界、コロナ、今なら、なにを話すでしょう。

<tranquiro=落ち着いて>と手をかざして、平穏な社会を祈った人でした。

 

 

 

 

 

 

亡夫の祥月命日

<Schoener Mai=すばらしい5月>の中旬を過ぎる頃、私は時計が逆回りしている

ような錯覚をしながら、亡き主人を偲びます。ほんとうに、数えきれない悔恨や

思い出が驚くほどです。あらたな自分に気づくのも含めて、人が巡り合う、、

不思議な<縁>を感じるのは、きっと、どなたも、経験される思いでしょう。

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14年は短くも長くも、、一人残された私の月日は今年も巡ってきました。

その間には私達夫妻が子供の用にかわいがった愛犬2匹も逝き、住み慣れた

家や場所、友人達とも別離して、ヨーロッパをたたんで、本帰国したのです。

しかし、ある時はその時間は遠い距離となり、又、ある時はすぐそこにあります。

過去と思い出だけでは空しい、余力を絞り,余生を主人の分もしっかりと生きようと、

考えていますが、さすがに、祥月命日の頃は落ち着かないのです。

 

まさに、天と地がひっくり返ったような発病から、実に15年以上の闘病生活を終えて

亡くなった主人は、体調のいい時期は別人のように人生を満喫して、又、悪化すると

落ち込んでしまい、私などの支えは全く役に立たなかったのを、今でもはっきりと

感じます。看病はどなたの場合も当事者でしか、分からない苦しい現実です。でも私は

いつも病人が一番苦しいのだと確信していました。私自身が娘時代から大病を経験して

狂ったように悩んだので、主人の支えになるかと自負して、2人3脚でやってみようと

提案したのです。

ドイツで発病して、ラパルマ島の家で暮らしたい意向は、本人の中に極めて強い思いがありました。しかし、当時の現地の医療状況はドイツに比較すると雲電の差でした。

https://www3.gobiernodecanarias.org/sanidad/scs/organica.jsp?idCarpeta=

www3.gobiernodecanarias.org    ( 新しくできた病院、家から約25km,山を越えて走ります)

 

住民は診療所で診察を受け、手術、入院などは、隣の島テネリフェの病院に船か飛行機で行きます。住民には家族や親戚、友人がいて、滞在できますが、私達は数年ドイツとラパルマの間を行き来しました。その頃、島にも新しい病院が開設、スペイン人、南米の医師が赴任し、麻酔医と看護師の各一人がドイツ人でした。通訳のためでしょう。

 

徐々に主人は、ドイツ行きの片道4時間半の飛行時間がきつくなり、又、車いす

使うようになり、その手続きが往復のフライトに必要であり、自宅から空港までの

片道35kmの送り迎え等、すべて依頼する事もあり、私達はダンダン疲れていました。

そして上記リンクの病院にお世話になります。一時は診療所から医師と看護師が自宅

訪問の期間も続きました。重なる病状は私達を不安にするばかりで、当時はドイツ人の看護師に話し相手と看病のため来宅を依頼しながら、私は周りの人達の助けがなかったら、当然乗り越えられない苦しい看病の日々を続けましたが、最後は強い痛みがでて

入院しました。 

その日は、主人のベッドの側にある簡易ベッドで寝るため、母犬のベラと娘犬のドーゾ

に留守を頼み、夕方病院に着きました。それまで2人部屋にいた主人がいないので聞いたら一人部屋に移ったと。すでに、主人は数日食事もとれず、昏睡状態でしたが、時々、犬の事、家の事、私の母の話,日本に行った時の事などを話します。

とぎれとぎれでも、どんなにうれしい会話だったでしょう。その夜も期待をしていた私は、普段と違う雰囲気に気づきつつ、ベットの横のヨーグルトを食べないかと思い、

スプーンを口に近づけましたが、目も口も開かないので、看護師を呼び、見てほしい

言いました。彼女はすでに知っていたのでしょう。首を軽く振って<no mas=ダメ>と言い出て行きました。

病状はひどいけれど、いきなり、死に至る、とは思っていなかった、あるいは思いたく

なかった私は、机の上の水を口にくわえて、最後の一滴を上げたいと思い、主人の口に触れた途端に、血がドッとふき出て、、即、ベルを鳴らしたのです。

<死>がこの瞬間なのか、ブルブル震えるばかりでした。私は、それまで自分の直ぐ

そばで、両親さえも、最後を看取った事がなかったので理性を失いました。

駆けつけた看護師達は、直ぐに主人の口にガ―ゼを含ませ、実にテキパキと仕事を、

私は主人の側で、友人達に電話をしました。ちょうど、その日は<dia de canaria >

祭日の夜10時過ぎ、皆は在宅中、15分後には駆けつけてくれた友人、その間にも

遺体は別の部屋に移動していました。一体、どうなっているのか、どうしてなのか、

一人部屋に移動したのは、最後の一日だと病院側は知っていたのでしょうか。

なぜ、早く来なさいと電話をくれなかったのだろう、、後日はあの瞬間を繰り返し思い起こすばかりでした。夜の遅い時間に友人達は安置部屋に集まり、私を慰めてくれました。その夜、家に帰るのに自分で運転したのか、どうか、今でも記憶がありませんが、

多分、カルメンが運転して、その夜は私の家に泊ってくれたのです。彼女は長い、長い付き合いで掃除を手伝ってもらい、なにかあると、いつも頼みごとをしていた人です。

 

スペインの小さな島の病院で外国人(ドイツ人)が逝く、予知は持ちながらも、すべて初めての事です。常から私達は外国にいる事もあり、万一はあり得る事も考慮して

(火葬)を二人とも希望していました。

早朝、El Pasoの約2kmのあちこちに(死亡通知)が公布されたと聞きました。

亡くなった夜か次の朝遺体は、El Pasoの葬儀社に移動して、午前10時から一般の

訪問者を夜10時迄受け付けると聞きました。これは日本のお通夜で、次の日が本葬、

午前10時から午後3時頃迄、弔問客が続いてそれから火葬場に移動しました。

電話もなかった頃は、一番早い知らせを葬儀社が住民に知らせた習慣が今もそのまま

です。人々はいち早く、葬儀社に駆けつけて、喪主の私にお悔やみをくれました。

泣きはらした顔、取り乱したままの数日が始まりました。

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住民が約5000人のEl Paso唯一の葬儀社の中も、道路にも<主人の死>を悼む人々で埋め

尽くされました。それは、主人の人柄を、生存中のお礼をしたい人々であり、後日の話では、それまでの外国人の葬儀で一番多い弔問客だったとの事です。外国人が地元の

人に愛されて一緒に暮らす事、大変難しいし、浸透しきれない事なのでしょう。

現地の習慣では、葬儀は死後3日間で殆ど終わります。火葬を希望する人も増え、

それまで、テネリフェ島に移動した不便もあったので、新しい火葬場ができました。

午後、遺体を乗せた車と、その後に続く家族や友人達の自動車で約2kmの移動は

長い行進となりました。主人は、この新しい火葬場で9体目だと聞きました。

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 (一足先に行くよ、後で会いましょう)とユ―モアの好きな主人の別れです。

 

ドイツ人の友人達は火葬場から、帰宅する私が一人にならないよう、ケーキを作り、

午後の遅いお茶会を考え、勝手知る私の台所でテキパキと用意をして、テラスで

15人位でお悔やみを続けてくれました。

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     (Las Macnhasの火葬場と埋葬を終えた主人の墓地)

翌日、葬儀社から<遺灰>を保存している事、次の日に、El Paso市営墓地で

最後の別れをする事を聞きます。すでに、死亡通知に全予定も記録されているので

墓地には、なんども私を最初から同伴した友人や近所の人達で一杯でした。

私は主人がドイツでなく、外国で最後を迎えたのを配慮して、プロテスタントの牧師にミサを依頼しました。ご両親と近い天国にたどり着いてほしいと願ったのです。

 

火葬をした人のために作られた小さな墓地が数段階にできていて、主人は最下段の

真中、遺灰の壺が入り、私は膝をついて別れをしました。人々は、一人づつ、花や言葉を主人と私に伝えてその日のすべての予定を無事に終える事ができました。

 

長い、長い、苦しい数日が過ぎました。ポカンと大きな穴が開き、疲れも喪失感も

ドンドン押し寄せてくる間にも、主人の姿が、人格が、はっきりと理解できるように

なり、出会った、共に生きた年月を思い、私は心から、尊敬して、感謝をしたいと

思うのでした。この感情は当時も今も少しも変わりません。

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        (主人の大好きだった赤いカーネションです)

 

  ** 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 合掌 合掌 合掌 **

 

 

 

Hapag Lloyd Reisebuero GmbH

   今日のタイトルは、ドイツで私が働いていた会社の名前とお話しです。

Covid19の自粛期間中は、自宅にいる時間が増え、山積みされた書類や写真を、それも天気の悪い日に始めました。どなたも同じような生活様式をされたのでありませんか。

 

不思議なのは手にする全てから、さまざまな思いが鮮やかに記憶を戻す事です。

すでに、40年以上の年月は流れているのですが、老いていくはずの頭脳や精神力に

隠されている記憶に驚きながら、たどる過ぎた日々です。

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          なつかしい画像はGoogleから借りました。 

現在も海運本社関係だけでも10,000人の大企業です。ドンと構えた湖畔の美しい建物が誇らしげです。この会社はドイツで一番大きな海運会社として、1847年にHamburgの

アルスター湖で創業します。当初はドイツからアメリカに移住する人達の客船を主な

業種として発展、1912年には、5万トン級の客船を数隻持ち、徐々に豪華客船も手掛けていました。本社の大ホーㇽには、当時の船の絵画が所狭しと展示され、その発展した時代を十分に示しています。新天地アメリカを夢見るドイツ人や他のヨロッパの国々の

移住者が後を絶たない時代が長く続いたのです。

 

         f:id:katsukomj:20200513120521j:plain満載のコンテナ船 

第二次世界大戦を堺にして、客船から海運業、コンテナ、国鉄、航空、旅行社と、

株主も、度々顔ぶれを変え、戦争の回復を図りみる時代になります。

そして堰を切ったように、人々は休暇を求める時代に入ります。

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急速に、飛行機で旅行する時代を迎えます。又、豪華客船も復活して、チャーター機の会社が1970年頃、発足して豪華船の発着する国・港に飛び始めました。数年後には、TUI(大手旅行社)と合併して、ヨーロッパ、世界各国に観光ブ―ムを起こします。

同じ頃、海運分野は東アジアルートに発展して、三井商船、日本郵船と合併して、

輸出入をいっきに広げました。現在、東京本社と4支店が日本で営業しています。

 

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私はこの大企業の旅行部門に入社しました。本社はBremenにあり、ドイツ中の支店は

30店以上だと思います。'70年初めには、Duesseldorf 支店にも約40人位 いました。

ドイツに行きたい、、そんな時、先にフランスに発った友人から、Duesseldorfで日本人を探しているらしい、、との朗報です。

当時も今も、外国人は労働許可書が必要で、大変難しい条件を要求されました。

すでに、日本企業は数社あり、この旅行部門も稼動していましたが、新しく赴任した

支店長が将来のビジネスチャンスを見ていたのでしょう。後日、いろいろな経験を

しながら、日本でも十分に会社勤務を知らない私が、この会社で働く機会を得た幸運を

なんども感動したのです。連日の日中は会社、夜はドイツ語の勉強、平行してドイツの

国・人々、すべてに好奇心が膨れていました。ドイツマイスター制度の基盤から、どの職種にも2年間の訓練期間があり、私は若いトレイナーに旅行社の仕事に関して

全てを教えてもらいました。特殊な日本部門の人事であるため、それは、かなり簡略

され、その上に言葉を理解しきれない、苦しい時期を得て仕事に喜びを見つけたのは、かなり後でした。新しく赴任した支店長は日本フアン、日本人の顧客は日本人が相手をすることが一番だと確信していた人で、<Japan Abteilung =日本係>のコーナーを多額の費用で、日本式に改造してくれました。大きな囲炉裏や座布団、書道画、ショーウィンドウには、人形や提灯を飾り、私は関係者とよく打ち合わせをしました。

珍しい会社はたちまち噂になり、そこは、どこか、日本的になり、和やかな中で、

旅行の相談にだけでも、と日本人の来客が増えたのです。

各企業は、社員の出張プランを秘書に任す場合が多く、しかし、学校の休み期間に

滞在中の家族を日本から訪ねて来る時などは、数多ある旅行企画を選び、決定する

相談を受けます。 

元来が 船会社で有名なので、豪華客船で日本人用の企画を進める話が持ち上り、又、

便利なバス旅行等、日本人専用の団体旅行が商品化されました。思えば、

オイルショック後で日本も急変化、ヨーロッパ旅行が新しい旅行の目的地になったの

でしょう。 

当時は、ドイツの政党SPDが労働者を強く支え、まさに、この会社も組合の力が

シッカリと私達を守っていて、一年間の有給休暇、13か月の給料、働く側に有利な

時代でしたが、私は日本人意識から、大事なお客様の依頼に応えようと、よく残業や

週末勤務をすると、管理人は鍵をかけ、翌日はクㇾ‐ムがつき、結局はドイツ式の仕事を時間中にいかに早く、適格に終えるか、習慣化され、そのシステムに歩調を合わす

仕事となりました。かたや、効果的に売り上げを伸ばすドイツ式商法をまじかに経験したのです。そして、飛行機の厚いチケットの手書きは、機械化され<ドイツ航空の

トレイ二ングセンター>や<Reisebuero Ausbildung>に一年に数回、指導を受ける

ため数日の予定で出張し、平行してヨーロッパの観光地を視察するstadytourで専門的

に知識を積みました。顧客に対応する能力と自信を、ほぼ徹底的に訓練を受けたの

です。 

通常ドイツ社会は、各々が独り立ちできるようになると、各業界での<Urkunde=

証明書>を受領し、転居しても、簡単に同じ業界に就職できて年金迄働きます。特に<Hapag Lloyd Reisebuero>の訓練は好評でした。どの職業に就きたいかは、すでに15-16才の頃進路を決めています。

<Arbeit nehmer hat Recht>労働者も雇用側もお互いを信頼できる仕組みを学び

ました。例えば、病気で無理をして出勤すると、逆に叱られて帰宅したり。

多分、ポピュリズム化した、現在より働きやすい時代だったのに違いありません。

 

振り返る 、懐かしい同僚、どうしているのでしょう?? 私が入社したのは、9月、

その12月は、バスで、クリスマスの(もみの木)を取りに山岳部に行き<豚汁>を

食べ、その数日後は有名になった<大都会=日本レストラン>で鉄板焼きのクリスマス会でした。

Duesseldorf 市民は、日本人社会を特別な関係として、迎えてくれ、現在まで続いて

います。

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 追伸:現地に家族を持ち、孫達も成長して、、ここに、いようと考える人が

   増えています。その人達が立ち上げた<竹の会>は根を深くおろし始めました。   リンクをごらんください。Duesseldorf 市の中で日本・日本人が輝いています。

 https://takenokai.de/

ベルリン発、、

  ベルリン在住の友人は、各種の目に止まる動画を転送してくれます。

 

<緊急事態宣言> が発令した4月初旬から、解除される迄の流れは毎日が情報の

山積みでした。誰もが感染を恐れながらも自粛解除を待ち、しかし、収束には多くの

課題を抱えていることを私達は気がつきながら、取り合えず一度深呼吸してみたい

思いでもあります。市中を泳ぐウイールスが第2波を近づけないよう祈りましょう。

 

情報があふれ、方向性を見失う程、不安感ばかりを大きくするのは、このウイールス

が強毒性であり、世界の国々も日本も同じ立場で戦う感染症の怖ろしさです。

 

私達には<見えていない=こない>現象が多いからでしょう。この動画で、専門家の

直言と共に今後を垣間見たようにも思います。

長い動画ですが、一部でもどうぞご覧下さい。  

   www.youtube.com   考えましょう、、確かな足取りで、将来を、大事な人生を生きましょう。