ヨーロッパと日本の私

ヨーロッパで体験した事、等々

Hapag Lloyd Reisebuero GmbH

   今日のタイトルは、ドイツで私が働いていた会社の名前とお話しです。

Covid19の自粛期間中は、自宅にいる時間が増え、山積みされた書類や写真を、それも天気の悪い日に始めました。どなたも同じような生活様式をされたのでありませんか。

 

不思議なのは手にする全てから、さまざまな思いが鮮やかに記憶を戻す事です。

すでに、40年以上の年月は流れているのですが、老いていくはずの頭脳や精神力に

隠されている記憶に驚きながら、たどる過ぎた日々です。

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          なつかしい画像はGoogleから借りました。 

現在も海運本社関係だけでも10,000人の大企業です。ドンと構えた湖畔の美しい建物が誇らしげです。この会社はドイツで一番大きな海運会社として、1847年にHamburgの

アルスター湖で創業します。当初はドイツからアメリカに移住する人達の客船を主な

業種として発展、1912年には、5万トン級の客船を数隻持ち、徐々に豪華客船も手掛けていました。本社の大ホーㇽには、当時の船の絵画が所狭しと展示され、その発展した時代を十分に示しています。新天地アメリカを夢見るドイツ人や他のヨロッパの国々の

移住者が後を絶たない時代が長く続いたのです。

 

         f:id:katsukomj:20200513120521j:plain満載のコンテナ船 

第二次世界大戦を堺にして、客船から海運業、コンテナ、国鉄、航空、旅行社と、

株主も、度々顔ぶれを変え、戦争の回復を図りみる時代になります。

そして堰を切ったように、人々は休暇を求める時代に入ります。

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急速に、飛行機で旅行する時代を迎えます。又、豪華客船も復活して、チャーター機の会社が1970年頃、発足して豪華船の発着する国・港に飛び始めました。数年後には、TUI(大手旅行社)と合併して、ヨーロッパ、世界各国に観光ブ―ムを起こします。

同じ頃、海運分野は東アジアルートに発展して、三井商船、日本郵船と合併して、

輸出入をいっきに広げました。現在、東京本社と4支店が日本で営業しています。

 

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私はこの大企業の旅行部門に入社しました。本社はBremenにあり、ドイツ中の支店は

30店以上だと思います。'70年初めには、Duesseldorf 支店にも約40人位 いました。

ドイツに行きたい、、そんな時、先にフランスに発った友人から、Duesseldorfで日本人を探しているらしい、、との朗報です。

当時も今も、外国人は労働許可書が必要で、大変難しい条件を要求されました。

すでに、日本企業は数社あり、この旅行部門も稼動していましたが、新しく赴任した

支店長が将来のビジネスチャンスを見ていたのでしょう。後日、いろいろな経験を

しながら、日本でも十分に会社勤務を知らない私が、この会社で働く機会を得た幸運を

なんども感動したのです。連日の日中は会社、夜はドイツ語の勉強、平行してドイツの

国・人々、すべてに好奇心が膨れていました。ドイツマイスター制度の基盤から、どの職種にも2年間の訓練期間があり、私は若いトレイナーに旅行社の仕事に関して

全てを教えてもらいました。特殊な日本部門の人事であるため、それは、かなり簡略

され、その上に言葉を理解しきれない、苦しい時期を得て仕事に喜びを見つけたのは、かなり後でした。新しく赴任した支店長は日本フアン、日本人の顧客は日本人が相手をすることが一番だと確信していた人で、<Japan Abteilung =日本係>のコーナーを多額の費用で、日本式に改造してくれました。大きな囲炉裏や座布団、書道画、ショーウィンドウには、人形や提灯を飾り、私は関係者とよく打ち合わせをしました。

珍しい会社はたちまち噂になり、そこは、どこか、日本的になり、和やかな中で、

旅行の相談にだけでも、と日本人の来客が増えたのです。

各企業は、社員の出張プランを秘書に任す場合が多く、しかし、学校の休み期間に

滞在中の家族を日本から訪ねて来る時などは、数多ある旅行企画を選び、決定する

相談を受けます。 

元来が 船会社で有名なので、豪華客船で日本人用の企画を進める話が持ち上り、又、

便利なバス旅行等、日本人専用の団体旅行が商品化されました。思えば、

オイルショック後で日本も急変化、ヨーロッパ旅行が新しい旅行の目的地になったの

でしょう。 

当時は、ドイツの政党SPDが労働者を強く支え、まさに、この会社も組合の力が

シッカリと私達を守っていて、一年間の有給休暇、13か月の給料、働く側に有利な

時代でしたが、私は日本人意識から、大事なお客様の依頼に応えようと、よく残業や

週末勤務をすると、管理人は鍵をかけ、翌日はクㇾ‐ムがつき、結局はドイツ式の仕事を時間中にいかに早く、適格に終えるか、習慣化され、そのシステムに歩調を合わす

仕事となりました。かたや、効果的に売り上げを伸ばすドイツ式商法をまじかに経験したのです。そして、飛行機の厚いチケットの手書きは、機械化され<ドイツ航空の

トレイ二ングセンター>や<Reisebuero Ausbildung>に一年に数回、指導を受ける

ため数日の予定で出張し、平行してヨーロッパの観光地を視察するstadytourで専門的

に知識を積みました。顧客に対応する能力と自信を、ほぼ徹底的に訓練を受けたの

です。 

通常ドイツ社会は、各々が独り立ちできるようになると、各業界での<Urkunde=

証明書>を受領し、転居しても、簡単に同じ業界に就職できて年金迄働きます。特に<Hapag Lloyd Reisebuero>の訓練は好評でした。どの職業に就きたいかは、すでに15-16才の頃進路を決めています。

<Arbeit nehmer hat Recht>労働者も雇用側もお互いを信頼できる仕組みを学び

ました。例えば、病気で無理をして出勤すると、逆に叱られて帰宅したり。

多分、ポピュリズム化した、現在より働きやすい時代だったのに違いありません。

 

振り返る 、懐かしい同僚、どうしているのでしょう?? 私が入社したのは、9月、

その12月は、バスで、クリスマスの(もみの木)を取りに山岳部に行き<豚汁>を

食べ、その数日後は有名になった<大都会=日本レストラン>で鉄板焼きのクリスマス会でした。

Duesseldorf 市民は、日本人社会を特別な関係として、迎えてくれ、現在まで続いて

います。

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 追伸:現地に家族を持ち、孫達も成長して、、ここに、いようと考える人が

   増えています。その人達が立ち上げた<竹の会>は根を深くおろし始めました。   リンクをごらんください。Duesseldorf 市の中で日本・日本人が輝いています。

 https://takenokai.de/