ヨーロッパと日本の私

ヨーロッパで体験した事、等々

亡き後、、

<主人の祥月命日>を先日、ブログに掲載しました。もし、その記事が目に留まられて

読んで下さったのでしたら、心より厚くお礼申し上げます。

        主人の良い供養となります。ありがとうございました!!

 

北ドイツ出身の主人は物静かな人でした。地元の人の事を(笑うのは一年に一度)

と皮肉を言われるぐらいですが、これは、長い寒い北海の冬を黙々と生きなければなら

ないから、と初めて主人の家族を訪ねた時に思いました。冬の日照時間もごく数時間

です。日本は極寒の冬でも明るい太陽が十分です。気候が人間をいかに左右するか私自身も意識するようになりました。

主人はですから、夢であれ事情が許せば、ラパルマ島のような明るい太陽の照る場所で住みたい、年金者になったら、そうしたいと考えて、古民家を買ったのでしょう。 

旅行者である事と居住者となる事は大きな違いがあります。資産家はアチコチに別荘を持ちますが、私達には選択肢は一つ、ですから、年金者になる迄は一年の休暇を大事に使い、痛んだ家の修理、庭の手入れ等をコツコツと始め、住み始めた頃はそれらしい

一軒屋でした。その上に、二人とも外国人なので、近所や地元の人々とも仲良くなり

たいのです。1980-90年代はヨーロッパからの旅行者は増えて、中には永住を希望する

人も多くなりました。その15年位前には、ドイツ人の作家が住み始めて、現地事情を

書いた本を出版しましたが、貧困と無教育を批判されたと地元から嫌われて、ある日、放火され、島から出ていったのです。島民は決して貧しくもなく、教育はそれほど

必要がなかった、戦争を知らない平和な暮らしが400年以上続いて島なのです。

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   <私達の家はいつでも解放されています、ジャカランダの木の下を入って下さい>

 

職業柄、ユ―モアのあった主人は、特に覚えにくい現地の人の名前に困り、ある時、

みんなに二イックネームをつけました。<Tomas-grande,Tomas-poco gordo,Tomas de

pan>、的を得たアイデアは喜ばれて、その呼び名はたちまち浸透していました。自身のドイツ名は、英語ならへンリー、スパイン語はエンリケ、だから、<enrique loco=

エンリケのばか >El Pasoの<Bar Central とスポーツ゚クラブ>は仲間の誰かがいる

場所、会いたければ、飲みたければ、ほんとうに様々な話題を楽しめます。

特に私がまれにもアジア人で珍しいので、主人は無意識にもかばう姿勢を持っていました。誇り高く、正々堂々と現地に溶け込んでいけるように配慮していたのです。 

葬儀の時、それがすべて表面化していたのでしょう。人々の真直ぐに示してくれる感情は胸深く留まりました。

 

火葬場で、遺灰を大小の2個に分けてほしいと依頼したのは、大きいのを< El Paso

墓地>小さいのを自宅にと考えからです。後日、日本に帰る時にと。

El Paso墓地には、毎日、毎日、午前中に行きました。庭に花もたくさん植えました。又、友人や近所の人も一緒にお参りしてくれました。

その半年後、山の上のバーベキュー場で約80人を招待して<お別れ会>を盛大に

しました。最高の天気で、パエリア、焼肉、地元産のワインとケ―キ、友人達と私の スピーチ、きっと主人が喜んだに違いない 半日でした。

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私は仏教徒として、主人の冥福を祈りたく一回忌、3回忌、7回忌迄、自宅でささやかな供養を食事をしながらみんなと続けました。

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<山羊の会話、もうエンリケはこの緑の島にいない? そう、しかし、彼は我々の

     思い出の中にいつもいるよ、、3回忌には20人の来客でした>

 

周りの人達は私ができるだけ一人にならない様に、お茶会や食事、コンサ―ト、山歩きに誘ってくれましたが、私は、2匹の愛犬とまだ解約すべきドイツの住まいもあり、悲しみながらも少しづつ前を向いていたのでしょう。ドイツ行きも度々となりました。

 

ある日、快晴、青空の海で背泳ぎをしていたら、急に主人を大西洋に連れてきたい、、と思いつきました。それも、北部の一番きれいな(puntagorda村)の海、日本よりこの大西洋の海を主人は喜ぶと信じたのです。数日後、観光客の(イルカとクジラ)を見る船に乗り、花を一杯詰めた小さな遺灰を静かに海面に降ろして<サヨウナラ>と

合掌しました。そして、イルカやクジラが泳ぐ大海原をみながら、主人がどんなに喜んでいるかと、ほんとうに自然に帰った主人が、解放されたと清々しい思いでした。

外国人の中では、その後、同じような海葬を行っていると聞きました。

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平行して不動産の売却もあり、いつでも本帰国が可能になる用意をする折、7回忌の時、<El Paso墓地>から、ドイツの両親の近くの<Emden墓地>が正解ではないかと考えて義弟宅に相談しました。それは、いつの日か、私はいないし、友人や近所の人達も

高齢、誰も訪れないお墓は寂しいと思ったのです。Emden なら義弟家族が来てくれ、

それこそが主人の最も喜ぶ自然な事だと考えました。飛行機に乗る遺灰の壺は承諾書が

死亡証と一緒に発行されたので手続きも不必要で、私は2011年の秋、出発しました。

国鉄は一等車を予約、大きな袋の中の主人を、良い景色の見える場所に据え、一緒に

景色を見ながら、今、MuensterこれからがOstfrieslandに入るよ、、とか話しながら。

まさに、小さなEmden市を後にし、長い人生をまっとうして、55年振りの帰郷でした。

今年初めに亡くなった義弟のお墓と目と鼻の先に埋葬されています。

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第二次世界大戦を身近に経験した人、<平和>を願い、自然派を貫いた一人の

ドイツ人が安らかにいてほしい、、その思いから、考え抜き、決定した、私の判断が

正しかったかどうか、しかし、すべては、私にできる精一杯の事だったのです。

 

アジア、日本が好きで、来る21世紀は中国の時代だと、いつも話していた言葉が

鮮明に思い出されます。変動する世界、コロナ、今なら、なにを話すでしょう。

<tranquiro=落ち着いて>と手をかざして、平穏な社会を祈った人でした。