カー二バル、Duesseldorf、ドイツ
カウントダウン、、カー二バル、謝肉祭です。
すでに、昨年の11月11日、11時11分に公示された<Karneval2020>の全予定が決定して
Duesseldorf の各地域毎に<Rosen Montag-バラの月曜日-祭日>パㇾードに掲げる
<テーマ>の計画がほゞ完了している頃だと思います。
ドイツで3番目に大きな<お祭り騒ぎ>が始まります。真冬の寒さを一気に吹き飛ばし、笑い、食べ,飲んで、日常から完全に離れて大騒ぎをします。
2月20日(木曜日)から2月26日(水曜日)は毎日の決まり事があり、初日は朝一番に
<男性のネクタイを切る女性>次の日は<女性が大騒ぎをする>この街の
<祭りっ子>にとっては、外部の人間には想像もできない高揚感に包まれます。
人口70万人位の中都市に現地の人達、友人、親戚の人々、外国人が見物して一緒に騒ぐ、、ホテルはどこも満員、毎年のこの数日間の経済効果は後日新聞に公表されます。日中は街の中、夜は大ホールで開催の集い、その代表的な場所には市長、有名人が大勢招待、参加して夜を徹して騒ぎます。
まさに、日本の阿波踊り<踊るアホーに観るアホー>同じアホーなら踊らにゃ
ソンソン、、なのだろうかと、私は本当に驚きました。そして人はこんなに底抜けに
騒げるのかと、、宗教が背景に始まった謝肉祭ながら、宗教色も、政治色もあまり
表面に出ないのです。極寒の真っさなかに、春を待つ数日をこの祭りであらわすのかなぁ、、とも思えました。
当然、仕事も手がつかず、睡眠不足になり、風紀は乱れ、よく、10月頃生まれの人の
事を<カ―二バルっ子>と噂するのです。
私は最初の数年は<バラの月曜日>を見るために、厚着をして外出して、街中を約3時間行進する行列車から投げる<飴、お菓子>を拾いに行きましたが、その後は連休を利用して、スキーに、太陽の多い南の島に行きました。
<バラの月曜日>は以前、在校数約1000人だった日本人学校の生徒達が<お神輿>を
担いで参加、大変好評でしたが現在はどんなでしょうか。
想像するだけでもすごいのは、当日の街の<ゴミ>の量です。しかし、翌日の朝は、すっかり清掃されています。予測される雪や霜で道路が凍結して危険だからでしょう。
今年の<Karneval>がいいお天気に恵まれて、怪我人のでない楽しい日々で
ありますよう、、日本から祈って、、#Duesseldorf Helau
白内障
年令と並行して、ほとんどの人が経験するのが白内障でしょうか。
一年に120万人の人々がその手術を受けると聞きました。その一人の私も右の目を
先日手術してお陰様で順調に回復中です。4年前に左の目が急に悪化して運転中の
信号も、前後の車間距離も不確かになり、ラパルマの病院の手術の予約を待つ事、
半年、友人がなぜ、日本で受けてこないのかとの意見に、至急帰国して偶然にもいい
医者に巡り合い現在まで無事でしたが、右目も急に見えにくくなったのです。
手術はいかなる小さな事でも、麻酔を使う事に拒否反応をする私は最近の医療を信じて
結果として安心しました。日本の医療がすばらしい発展をしているのだと感じて
います。
特に<目、見える事>に関して、私は亡夫と母から身近にその苦しさを見てきました。
亡夫は文筆家、60才迄、定期健診しか知らない健常者でした。真夏のある日、光の
きついテラスで読書をしているので驚いた私は止めて、適合するサングラスを
調達したらと進めたのです。ラパルマの真夏の太陽はほんとうに強烈なのです。
数日後、帰宅してドイツの眼科で診療を受けた所、<右眼の中にガン>が発見された
のです。直ぐに診断書を持って、当時眼科では有名な<Essen大学の眼科>の教授を訪問、再度の確認も<眼ガン>でした。即、摘出との医者の言葉を聞いて私達は言葉を失い主人はなんとか、他の方法を見つけてほしいと依頼しました。ロシアの治療に
<コバルト>を使うのがあるから試そうとの話。しかし、度々の検査の結果、効果は上がらず、むしろ、やっと見えていた片方の目まで痛める事になったのです。
すべては回り道だけと分かり主人は摘出を決意します。当時<Privat-Versicherung>に
加入していたので病院の対応は最高のレベルで教授ご本人で執刀されたのです。
主人は片方の目の視力が以前から弱く、よく見えていた目を失ったのです。
私達の不安と将来を想像する連日はオロオロするだけでした。特に職業柄現場に戻れ
ない事、どんなに苦しい葛藤が長く続いたことでしょう。
そして、現実を受け止めて生きる力を見つけた時、ラパルマの<光>が大きな救いで
あると、ラパルマの生活を選びたいと、発言するようになり、私もこの現実を理解したいと思いました。残った目の視力は0,005 すでに盲人です。
私はいつも、それでも主人が<光>を見る時は、どれぐらい見えているのか、自分の
目をふさいで遠くを見たのですが、、それがなんの役に立ったのでしょう。
できるだけ、きれいな色の花を主人が近くで見れるように、感じるようにテラスに
植えました。蜂が飛んでくる音、小鳥のさえずりで、もう午後5時かと聞いたり、
障害者の生活の始まりでした。雨の降る日、夜眠れない時、いつでも歩けるように
大きなテラスも作りました。偶然にも静かに老後を迎えたいと願い、買っていた家が
実に大きな救いと癒しを与えてくれたのです。
母は無償の<愛>を私達5人の子供に限りなく、生涯与えてくれた人でした。
父の<愛>を知るのは、私達が社会に出て、躓き,壊れそうな時なのでしょうか。
第2次世界大戦の後、一生懸命に私達を守って育てあげた両親にどんな感謝の言葉が
あるのでしょう。母の労働力、行動力を評価する、、私は、自分自身が高齢になるほどに強く、深く 理解します。
その母は60才過ぎたある日、緑内障を発病します。そして摘出です !!!
当時阪大病院のの眼科に入院、砂枕で回復を待ちました。私はこの時ドイツで会社勤務、お見舞いにも行けずカセットテープに励ましの言葉を、毎日の事を録音して
送りました。その後の母も視力は両眼とも弱くなり、強度の眼鏡やルーぺを使い
ほんとうに不自由に生活したのです。父は台所で白いものを切る母を見て、こんなに見えていないのかと思ったと後日私に話してくれました。母が切ろうとしたのは
<白菜>、でも白い布巾をまな板の上に載せていたのです。
生涯、文学少女、、と私達子供から言われた母は、1991頃から3回にわたり訪日した
私達夫妻のその都度5-6週間に及ぶ滞在期間中、大変喜んでくれました。
母の才能は<短歌や和歌>をさらに深めて楽しみ、主人自身、<書けない>生活になってから、以前、会員として参加していた<ドイツ俳句協会>の復活を始めていました。
偶然にも母と主人は共通の趣味を分かち合う事になります、主人はドイツ語で書き、
母は日本語、両方の作品の背景を近くで知る私は、いつの間にか二人の架け橋と
なり翻訳、不十分ながらそれは私から二人への大きな感謝とお礼となっていきました。
母** 確かなき吾が眼なれどありがたく触りてもみし萌ゆるクロ―バー
夫** 一つの眼半分の価値なれど心おく深く見ゆる眼でもあり
母** 人情の豊かな方と通じ合い幸祈りつつ日々を生きなん
<初めての訪日、1991年の冬>
75年、、この時間は、、
短いのか、長いのか、時計をとめて誰もが共に考えたい問題です。
先日、ドイツ連邦議会では、イスラエルのネタニヤフ首相が出席して貴重な
スピーチをしました。 その日は <アウシュビッツ 解放75年>でした!!!
この画像は<Wikipedia>から引用しました。
<負の歴史>を知らないドイツ人の人口が40%になったそうです。それは、自分に
関係ない、想像できない、若い世代と昨今の混乱するドイツ社会を反映して
いる理由だろうかと、ZDF-TVは放送していました。教育の場でさえ取り上げない、
遠い<昔>の事なのでしょうか。
メルケル首相の講演をみて胸がこみ上げます。ぜひご覧ください。
https://www.youtube.com/embed/vVuX99hwYnI
この動画はドイツ、ベルリン在住の友人から届きました。
日本語の翻訳付きですから、ぜひご拝読下さい。
亡夫は平和を生涯叫んだ人、知り合った当時、私達はどんなにか多くの事を話した
ことでしょう。ドイツ語はよくわからなくても、理解したくて一生懸命でした。
私は、広島と長崎の原爆に関して、Duesseldorfの市民主催の<原爆反対>のデモに
参加した後でもあり、主人の苦しさが、ドイツ人として人間として、いかに深いかと
理解できるようになったのです。人間の歴史が始まってから、約60年に一度は人間は
想像できない残虐、戦争、行動を繰り返してきているのだとも話していました。
ドイツに住んでいたから、私は原爆の恐ろしさと同様だと感じたのです。
風の音、ラパルマ島
この小さな大西洋に浮かぶ島は、東西南北、どこかでの場所で一年中強い風が
吹いています。気温が35度を超える真夏、季節は夏と冬しかない常夏ながら、冬は
気温が下がると薄暗くなり、強い風が2-3日吹き続けるのです。
住民は風の方向を見て、もうすぐ雨かも、これで涼しくなるかも、、と長年の経験で
感知できます。それに合わせて連日の生活が営まれるのでしょう。
https://www.youtube.com/embed/_rB3LZd1tEg
上記のURLは<風の音、ラパルマ島>の動画YouTubeを表示しますので、
クリックしてどうぞご覧ください。
いい天気だから、と干した洗濯物は見事に飛んでしまい、度々探しましたが、その内
慣れるのです。植木鉢もゴロゴロとテラス中を転んでたりしました。
大自然は、私の判断などお構いなしに、知恵を絞って生活する事を教えてくれました。
あの地で順応して、素直で、忍耐の習慣を産まれながらに知っている地元の人達を
尊敬しました。
ドイツ、Emden(エムデン市)
北海に面した人口約5万人の小さな街がエムデン市です。
冬の寒さは格別な海に近いこの地から、義弟が死去したとの知らせを受けました。
クリスマスにお祝いの電話をもらい、長い話をしたばかりでした。散歩に行きたいと
一人で出かけて、道路で転び、病院に運ばれて、10日間意識不明の後、帰らぬ人と
なりました。すでに30年を越える家族としていつも、いつも温かく迎えてくれた年月が蘇っています。Amazon.de から大きな花束を送り、心から冥福を祈っています。
ありがとうございました !!!
義弟は、生まれて一度もこの街以外の場所で暮らしたことはありません。ドイツも
以前は最後まで両親と一緒に生活する人が大勢いました。
1944年、第2次世界大戦の終わり近く連合軍はこの街の約44%を破壊して、市民は誰もが自分達の手で家を再建したのです。今の家も両親が建てた当時のまま、ガッチリとして、2家族が住めるように設計されています。
当時11才位の 亡夫はその戦争の時、破壊した街の至る所に<死体>を見て、その人生観を、戦争の恐ろしさを基盤にした思想と行動で生涯を貫いた人だと思います。
だから、中部ドイツのWiesbaden市に行き、文筆家、ジャナリストになる勉強をしたのだと話していました。 叫びたい、、平和でありたい、、と。
この街で彼は18ー9才迄過ごしたのです。祖父母に大変大事にされた長男でした。
特に祖父は当時、中国、青島に航海する船の船長でした。ドイツは第一次世界大戦の頃、青島を本拠地とする<東洋艦隊に配属されエムデン軽巡洋艦>がアジア各地を航海していたそうです。亡夫は子供の時から.このおじいさんが持ちかえる珍しいお土産が嬉しくアジアに関心を持ち始めたのかもと、、と話していました。
一家は実に堅実で慎ましく、父上は国鉄勤務、弟は警察官でした。
典型的なドイツ人の生活を見た私は現在でも朝夕には、プロテスタントのバイブルを
読んでお祈りしてから食事をする、ほんとうに驚きました。
義弟はシフト勤務が続いたため半盲になり義妹がバイブルを読んで家族の安泰を
祈ります。
エムデン市役所、海近い運河は多くの船が立ち寄ります。
オランダ迄約50kmの距離で、運河を利用した交通機関で 栄えた時代から、戦後の工業は<Volkswagen>の工場を作り、私が初めて訪ねた時は、港に日本船が停泊して、VWを積み込んでいました。ドイツの北の果で日本の船を見る、とても印象深い
思い出です。労働者が多いのと、北ドイツ一帯が政党としてSPDが強く、この街も約80%の人がSPDです。
亡夫はDuesseldorf市で働き、絶えず実家に帰っていました。彼をこの小さな街で幸せにしたのも、自然が豊かで、畑を、ウサギやニワトリを飼い一家の生計を助ける
少年時代があり、弟と過ごした期間、いろんな話を二人はよくしていました。
二人は今、再び一緒に、又、両親も共に、分かち合えた時間を懐かしんでいるのでは
ないでしょうか。
故郷、ふるさと
この言葉の文字や響きでさえ、どこか懐かしさを感じるのは私だけでしょうか。
皆さんは、自分の<ふるさと>の地名を断言できるのでしょうか。
最近、私はこの<問い>からかなり解放されている自分に気がついて安堵しています。
<ふるさと>にいる?日本人の、家族の、友人達の側に住んでいるからでしょうか。
外国滞在中、自分の故郷は<いまいるところ>と言い聞かせて、実際にドイツ、
スペイン、どの地にいても、日本人が集まると必ず<このテ―マ>で話が始まった。
滞在期間が長くなり、帰国するまでの数年は、日本人である意識は優先するものの
<ふるさと>はダンダンと遥かな遠い地となり断言できなくなりました。だから、
定期的に帰国して家族と共にいる時間を持ち、日本が私の<ふるさと>だとの考えを繋いでいたのでしょうか。
ドイツ人との結婚は二人分の<ふるさと>を意識する事であり、又、住んでいる場所が変わればその意識も新たな<テーマ>になります。
ドイツの現役時代は仕事優先で深く考えず、むしろ、退職した後、主人の看病が始まると突然襲ってくる意識はなんと深くて、、。働き続けたドイツ社会の20年は瞬く間に
過ぎていて社会から離るのを知り、病気の主人との2人3 脚の暮らしが始まりました。
ラパルマ島の家は亡夫が<夢>のように望み、気候、環境と老後を考えて48才の頃に
一目ぼれして買った家です。築135年、大松の木の中心を使って,ガッチリと建てられた広い家と、広い庭を見てどこから手を入れたらいいかと、私達は話し会いました。
15年間、売りに出ていた家の庭は、荒れ放題、又、火山島のため、土より小石が多くて
整地するのが大変でした。でも、近所の菜園でみた、サツマイモを植えたくて早速の
<土いじり>。大事な水は雨の降る時,屋根やテラスと道路から流れ入るように掘って作られた幅5.5m,深さ4mの<用水>からポンプでくみ上げ、野菜の近くに大バケツを
置いてまく。
初めて取れた<イチゴ>はその後、主人の朝食用に重宝しました。
アーモンド の実を取り出すのは時間のある時の仕事です。
朝夕の手入れで野菜や果物、花の成長を知る連日は<幸福感>が一杯でした。
農薬等、一切門外、鶏糞、馬糞、コンポスト等、不足すると落ち葉を微塵切りにして、自給自足、余ればご近所や友人に届け、そこからは、私達の畑にないものを頂き、豊かな人間関係も自然に大きな輪になって<土を触る充実感>を体の奥深くで感知した時期でした。亡夫は病気と闘いながらも、私達は十分に力を分かち合えたのだと確信して、それは<土のエネルギー>が苦しかった闘病生活の亡夫と途方に暮れる私を<ふるさと>がどこか、と教えてくれた偶然性を思うようにもなりました。
ブドウは約4リットルのジュウスを作り、リンゴはジャムに。
私達が二人で<いまいるところ>それが第2の故郷でした。それぞれの第一の故郷は、一人はドイツ、一人は日本、しかし、人情あふれる素朴な地元の、又、ドイツ人の
自然派等、住む場所に<土のある場所>だと知り感動したのです。
特別の思いがラパルマ島の暮らしに根をおろしていたのです。
新年会
今年もにぎやかに友人達とお祝い会ができました、、との写真が届きました。
ここは、カナリー諸島、Grand Canarie島,首都のLas Palmas市です。
ランチがすんで、コーヒーとケ―キも終えた、日没前の太陽が眩しい午後です。
よく見ると、知っている顔、人が大勢いて、みんなの笑い声が聞こえそうです。
招待する人、される人、毎年の楽しみは大きくて、それぞれが<持ち寄る・作る>料理もまさにプロ級でしょう。<さぁ、、>今年も頑張ろうと無言の意識確認のひと時だと写真を見ながら皆さんの健康と安泰を祈っています。
7島あるカナリー諸島は、2つの州制に分けられて、Grand Canaria,Lanzarote と Fuentventura、他の小さな島々。もう一つはTeneriffe,Gomera,LaPalma とEl Hiero。
同じカナリア諸島でも風土や習慣がかなり違いますが、Grand Canaria島は大昔から
貿易で栄え、インド洋からアフリカ大陸,ヨーロッパに航海するルートができていて免税国として独立していました。各地から寄港する民族が生み出す国際色豊かな街となり、言語も無数に使われます。
世界3大港のひとつであり、6万トンもあるクルーズ船も問題なく錨をおろせますし、
日本のクルーズブームでは今後訪れる人がますます増えて、すばらしい島めぐりが
満喫できると予測される観光スポットでしょう。
第二次世界大戦の後、1950年代には日本はこの地に遠洋漁業の足場を作り、暖流にのる<マグロ>の捕獲で繁栄し、商社と企業が進出して日本人を派遣、日本総領事館、
日本人学校、補習校等、街つくりを始めたのです。すでに領事館はその50年記念祝典を
しました。当時から、すでに50-60年住んでいる日本人は、次世代、3世代と年を重
ねて、この地を最高のふるさとと決める人も多数います。現在は約250位の方が遥か
日本から遠い地でお互いに協力、助け合って生きる団結力で独特の強さを示しています。スペインで最初の<日本レストランFuji>はオーナーの佐藤氏の堅実できめ細かい営業で定評を積み40年の業績をたたえて,州都とLas Palmas市長、観光局から功労賞を授与されました。
気候が温暖なので、毎日は充実した生活であり、魚は新鮮、野菜、果物等、存分に太陽を浴びて育った食品で遊湯自適に暮らせるのです。
漁業面は<ビンナガマグロ>が不魚になり、現在は日本で販売される<蛸>が殆どこの近海で捕獲されると聞きました。港は船舶の整備が主力となり近郊から日本の船が絶えず出入港します。
戦後のドイツ人は、はじめはスペイン本土の海岸、さらに地中海の島々に、そして
気候、太陽が安定しているカナリー諸島に旅行するようになりました。1970年代は
あの大きな島の海岸には、ドイツ資本のホテルが立ち並び、ドイツ各地からドンドン
休暇に来るので、まるでドイツにいるような文化があちこちで作られたのです。
経済繁栄はこの島々を豊かにし,子供達もドイツ語を学んで将来の就職に備えます。
最近は、自国より移り永住を望む人達が増えて、EUの特典も利用されています。
ラパルマ島は自治面はTeneriffe島に充当しますが、日本人の滞在手続きは
日本領事館なのです。小さな飛行機に乗って、その用事の都度行く、なんと不便な
離島の暮らしかと嘆いたもの、しかし、Las Palmas島にはすでに、中国人,韓国人が
多く住み、食料品店も数店ありました。日本食が食べたい、、外国滞在が長くなると
自然にその思いは大きくなり、次第に現地の日本人のご好意にすがるようになり
ました。醤油、味噌、昆布等、調味料が増えて、ダンダン日常生活が豊かになってどんなにかうれしかった事、亡夫は船便が着く度、開梱する私の顔が印象的だったと後日
話していました。
日本からの船便で着く食品を特別に私に分けて下さった<レストランの佐藤氏>、又
<殿さん><北さん>皆さんの数々のご好意に支えられて、ラパルマ島の暮らしは実に
豊かな温かい数年となり、いまに至りました。
又の日、お目にかかりたく、その時は皆さんと心ゆく迄お喋りして笑いましょう。
ほんとうに皆さん、長い年月、いろいろとありがとうございました !!