ヨーロッパと日本の私

ヨーロッパで体験した事、等々

ドイツ、Emden(エムデン市)

    北海に面した人口約5万人の小さな街がエムデン市です。

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冬の寒さは格別な海に近いこの地から、義弟が死去したとの知らせを受けました。

クリスマスにお祝いの電話をもらい、長い話をしたばかりでした。散歩に行きたいと

一人で出かけて、道路で転び、病院に運ばれて、10日間意識不明の後、帰らぬ人と

なりました。すでに30年を越える家族としていつも、いつも温かく迎えてくれた年月が蘇っています。Amazon.de から大きな花束を送り、心から冥福を祈っています。

         ありがとうございました !!!

 

義弟は、生まれて一度もこの街以外の場所で暮らしたことはありません。ドイツも

以前は最後まで両親と一緒に生活する人が大勢いました。

1944年、第2次世界大戦の終わり近く連合軍はこの街の約44%を破壊して、市民は誰もが自分達の手で家を再建したのです。今の家も両親が建てた当時のまま、ガッチリとして、2家族が住めるように設計されています。

 

当時11才位の 亡夫はその戦争の時、破壊した街の至る所に<死体>を見て、その人生観を、戦争の恐ろしさを基盤にした思想と行動で生涯を貫いた人だと思います。

だから、中部ドイツのWiesbaden市に行き、文筆家、ジャナリストになる勉強をしたのだと話していました。 叫びたい、、平和でありたい、、と。

この街で彼は18ー9才迄過ごしたのです。祖父母に大変大事にされた長男でした。

特に祖父は当時、中国、青島に航海する船の船長でした。ドイツは第一次世界大戦の頃、青島を本拠地とする<東洋艦隊に配属されエムデン軽巡洋艦>がアジア各地を航海していたそうです。亡夫は子供の時から.このおじいさんが持ちかえる珍しいお土産が嬉しくアジアに関心を持ち始めたのかもと、、と話していました。

 

一家は実に堅実で慎ましく、父上は国鉄勤務、弟は警察官でした。

典型的なドイツ人の生活を見た私は現在でも朝夕には、プロテスタントのバイブルを

読んでお祈りしてから食事をする、ほんとうに驚きました。

義弟はシフト勤務が続いたため半盲になり義妹がバイブルを読んで家族の安泰を

祈ります。

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                エムデン市役所、海近い運河は多くの船が立ち寄ります。

 

オランダ迄約50kmの距離で、運河を利用した交通機関で 栄えた時代から、戦後の工業は<Volkswagen>の工場を作り、私が初めて訪ねた時は、港に日本船が停泊して、VWを積み込んでいました。ドイツの北の果で日本の船を見る、とても印象深い

思い出です。労働者が多いのと、北ドイツ一帯が政党としてSPDが強く、この街も約80%の人がSPDです。

亡夫はDuesseldorf市で働き、絶えず実家に帰っていました。彼をこの小さな街で幸せにしたのも、自然が豊かで、畑を、ウサギやニワトリを飼い一家の生計を助ける

少年時代があり、弟と過ごした期間、いろんな話を二人はよくしていました。

 

二人は今、再び一緒に、又、両親も共に、分かち合えた時間を懐かしんでいるのでは

ないでしょうか。