ヨーロッパと日本の私

ヨーロッパで体験した事、等々

白内障

  年令と並行して、ほとんどの人が経験するのが白内障でしょうか。

一年に120万人の人々がその手術を受けると聞きました。その一人の私も右の目を

先日手術してお陰様で順調に回復中です。4年前に左の目が急に悪化して運転中の

信号も、前後の車間距離も不確かになり、ラパルマの病院の手術の予約を待つ事、

半年、友人がなぜ、日本で受けてこないのかとの意見に、至急帰国して偶然にもいい

医者に巡り合い現在まで無事でしたが、右目も急に見えにくくなったのです。

手術はいかなる小さな事でも、麻酔を使う事に拒否反応をする私は最近の医療を信じて

結果として安心しました。日本の医療がすばらしい発展をしているのだと感じて

います。

 

特に<目、見える事>に関して、私は亡夫と母から身近にその苦しさを見てきました。

亡夫は文筆家、60才迄、定期健診しか知らない健常者でした。真夏のある日、光の

きついテラスで読書をしているので驚いた私は止めて、適合するサングラスを

調達したらと進めたのです。ラパルマの真夏の太陽はほんとうに強烈なのです。

数日後、帰宅してドイツの眼科で診療を受けた所、<右眼の中にガン>が発見された

のです。直ぐに診断書を持って、当時眼科では有名な<Essen大学の眼科>の教授を訪問、再度の確認も<眼ガン>でした。即、摘出との医者の言葉を聞いて私達は言葉を失い主人はなんとか、他の方法を見つけてほしいと依頼しました。ロシアの治療に

<コバルト>を使うのがあるから試そうとの話。しかし、度々の検査の結果、効果は上がらず、むしろ、やっと見えていた片方の目まで痛める事になったのです。

すべては回り道だけと分かり主人は摘出を決意します。当時<Privat-Versicherung>に

加入していたので病院の対応は最高のレベルで教授ご本人で執刀されたのです。

主人は片方の目の視力が以前から弱く、よく見えていた目を失ったのです。

私達の不安と将来を想像する連日はオロオロするだけでした。特に職業柄現場に戻れ

ない事、どんなに苦しい葛藤が長く続いたことでしょう。

そして、現実を受け止めて生きる力を見つけた時、ラパルマの<光>が大きな救いで

あると、ラパルマの生活を選びたいと、発言するようになり、私もこの現実を理解したいと思いました。残った目の視力は0,005 すでに盲人です。

私はいつも、それでも主人が<光>を見る時は、どれぐらい見えているのか、自分の

目をふさいで遠くを見たのですが、、それがなんの役に立ったのでしょう。

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できるだけ、きれいな色の花を主人が近くで見れるように、感じるようにテラスに

植えました。蜂が飛んでくる音、小鳥のさえずりで、もう午後5時かと聞いたり、

障害者の生活の始まりでした。雨の降る日、夜眠れない時、いつでも歩けるように

大きなテラスも作りました。偶然にも静かに老後を迎えたいと願い、買っていた家が

実に大きな救いと癒しを与えてくれたのです。

 

母は無償の<愛>を私達5人の子供に限りなく、生涯与えてくれた人でした。

父の<愛>を知るのは、私達が社会に出て、躓き,壊れそうな時なのでしょうか。

第2次世界大戦の後、一生懸命に私達を守って育てあげた両親にどんな感謝の言葉が

あるのでしょう。母の労働力、行動力を評価する、、私は、自分自身が高齢になるほどに強く、深く 理解します。

 

その母は60才過ぎたある日、緑内障を発病します。そして摘出です !!!

当時阪大病院のの眼科に入院、砂枕で回復を待ちました。私はこの時ドイツで会社勤務、お見舞いにも行けずカセットテープに励ましの言葉を、毎日の事を録音して

送りました。その後の母も視力は両眼とも弱くなり、強度の眼鏡やルーぺを使い

ほんとうに不自由に生活したのです。父は台所で白いものを切る母を見て、こんなに見えていないのかと思ったと後日私に話してくれました。母が切ろうとしたのは

<白菜>、でも白い布巾をまな板の上に載せていたのです。

 

生涯、文学少女、、と私達子供から言われた母は、1991頃から3回にわたり訪日した

私達夫妻のその都度5-6週間に及ぶ滞在期間中、大変喜んでくれました。

母の才能は<短歌や和歌>をさらに深めて楽しみ、主人自身、<書けない>生活になってから、以前、会員として参加していた<ドイツ俳句協会>の復活を始めていました。

偶然にも母と主人は共通の趣味を分かち合う事になります、主人はドイツ語で書き、

母は日本語、両方の作品の背景を近くで知る私は、いつの間にか二人の架け橋と

なり翻訳、不十分ながらそれは私から二人への大きな感謝とお礼となっていきました。

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       母** 確かなき吾が眼なれどありがたく触りてもみし萌ゆるクロ―バー 

       夫** 一つの眼半分の価値なれど心おく深く見ゆる眼でもあり 

       母** 人情の豊かな方と通じ合い幸祈りつつ日々を生きなん

                 <初めての訪日、1991年の冬>