カナリア諸島の食事
一気に朝夕が涼しくなり心身共にホッとしています。食欲も少しづつ戻って
きましたね。
<stay home>の追記に書きたい事はたくさんですが、ラパルマ島以外の
島の食事も含めてご案内したいと思います。7つの島にはその風土と環境で育つ
食材にも違いがあり、もちろん味覚も異なります。
特にその中でも地元の人々が大事にする食事や味覚をお伝えしましょう。
カラリア諸島はスペイン本土より、アフリカ大陸に近い距離から、食事の経路も
独特でアフリカ食文化の影響も多く受けています。7島は大西洋の気候と雨の
少ない条件から、農業は狭い土地で繁栄できず荒れた土地を開拓して発展した
バナナ産業で現代はヨーロッパに向けての輸出が最も大きな収入源です。
本来は漁業が盛んでしたが、第二次世界大戦後、日本、韓国などの漁場に
なりました。特に日本は戦後すぐにGran Canariaに日本の商社や企業を基盤として
栄え、学校もでき、日本レベルの生活が可能な場所になりました。しかし、海流の
変化や稚魚を取りすぎて漁場として適せなくなります。最近は<蛸>の収穫が
主で、私達が日本のス―パーで買う蛸は殆どカナリア島の沖で取れるものでしょう。
20-30年前は<カジキマグロ>の漁場として、日本船が港一杯に停泊していました。
当時、新しく漁獲したマグロが港に入ると、200-300kgの大きなマグロを水槽に
いれて、日本行きの飛行機が出発する日に、低温真空パックにして東京の
築地市場に運ぶのだと聞いて本当にびっくりしました。空路何時間かかるか、
当時は直行便もなくて、ヨーロッパのどこかで乗り換える必要があったでしょう。
冷凍しないで鮮魚として日本に着く、それだけ、日本は鮮魚に対する大きな
需要を持っていたのです。
度々の訪問の行先は、Grand Canaria島とTeneriffe島、休暇で訪ねた他の島々は
いづれも印象深い食文化を持っていました。
現地のグルメファンか住んでいる日本人のアドバイスは、いつの時も大変うれしい
情報源でした。Grand Canaria島の首都、Las Palmasでは、ラパルマ島で不足している
日本食を<レストラン Fuji>で、又、スペイン食も古い有名なレストランで。
<Fuji>は50年前に開店したスペインで初めての日本食のレストランです。
いつも満席で予約なしでは入れないでしょう。現在も顧客の相手をていねいに
される経営者で東北出身の佐藤氏は穏やかなお人柄です。
現在の料理長はスペイン人、多くの弟子の中から選んだチェフを家族のように
大事にされています。Las Palmas市は3年前、佐藤氏に功労賞を授与しました。
10粒も食べればいいでしょう。
スペイン食で前菜の<Pimiento de padron>は若い細いシシトウガラシを素揚げして、
荒塩をかけて食べます。オリ―ブ油の香ばしさのある素朴な味と赤ワインかビール、
一切れのパンがよく合いました。
別の日は、Sopa de Garbanzos con Pollo(ひよこ豆と鶏肉のス―プ)これも冬期には
温まります。又、ベジタリアン食でもあり、これだけでも栄養価充分ですから、
私はいつも半分注文しました。
魚をあげる時は必ず切り身を入れます。注文する前に新鮮かどうかよく見て自分で
選びました。
殆どの場合、メインは魚、それも中位の大きさの鯛をニンニクの入った油で
素揚げして緑のモホスとレモンをかけ、お米かジャガイモを添えていました。
醤油があればさらにおいしいでしょう。しかし、現地の乾燥した気温・気候は
どうやら隠された長年のいい習慣が食材を引き立ているようすでした。
時には、ウサギの野菜煮込みと茹でたジャガイモ、まだ湯気に立つ大皿が食欲を
そそいました。
デザートが大好きなスペイン人、その日の特別デザートが全体の食事をまとめます。
イチゴ(mora)は季節感あふれる人気デザ―ト、しかし、夏はアイスも好評です。
食後のカフェソロの引き締めた味覚、私はこの組み合わせを、この島々からうまれた
食文化だといつも感激しました。至福の時間を楽しむ人達です。
特に海辺のレストランで食事するように時間を予定するので、Gran Canaria島も
Teneriffe島も食事には大差がなく、むしろ、雰囲気を一緒にするように思いました。
buen provecho == どうぞ よろしく召し上がれ ~~ !!
stay home,,追記,,食べる
ラパルマ島の新鮮な空気と緑におわれた風土に適して、食べ物はそれぞれの
味覚を限りなくいかしてくれます。スペイン人は<食>を大変大事にしますが、
フランスやイタリアの習慣とその点はよく似ていると思います。
一家揃って<食べる時間>が習慣化されていて特に、昼食、又、日曜日は
家族全員が揃います。一般に店舗も午後1時から午後3時迄は殆ど閉店です。
主婦達が家と家族を守る意識は現在も以前と変わることなく続いています。
彼女達は一番にその日のデザートを決めて作ります。殆どの家庭が裏庭に
ニワトリ、野菜、果物があり、食材は新鮮で、経済的、残り物はニワトリが
食べてくれます。
主食はジャガイモ、小麦粉、米、ジャガイモは塩、水とレモンで茹でる
方法があり大変おいしいのです。北スペインには水田があり、最近は日本の
お米に似た良質のお米が収穫できて、有名なパエリアも好評です。
有名なソースは、モホスの赤と緑、この二つのソースを自家製で丁寧に作り、
赤は肉料理、緑は魚に最適で、その味はすべての食に適しています。
日本のすり鉢のような、木をくり抜いた小さな鉢でこすります。材料は、
赤パプリカ、チリ、ニンニク、コㇾアンダ、サフラン、オリ―ブ油、塩、
コショウ、ワイン等、緑のモホスは緑のパプリカです。
土産店では外国人がドンドン買う目玉商品ですが自家製は実にすばらしい味です。
<Gofio>は特にTeneriffe/La Palmaで必需品であり、赤ちゃんも哺乳瓶に入れて
飲む習慣があります。<Gofio - ゴフィオ>は大麦、小麦、トウモロコシ,
豆果等を挽いて粉にした栄養価の高い事で知られ、哺乳瓶に小さじ1杯入れる
ようです。他の食べ方はさまざま、簡単に水で混ぜ合わす、または、スープの汁で
混ぜる、私は必ずパンを焼くときに10%位混ぜました。ケーキを焼く時にも、
つまり、健康食品のNo.1でしょう。ですから、カナリーの人達は健康だと
言われ、簡単で安くて、日本のきな粉を思いますが、きな粉は大豆が原料です。
トウモロコシはやせた土地でも育つので、スペイン、南米、アフリカの広範囲の
大事な食糧で、ベネズエラの主食は<アレパス>、帰島した人達が作る味は格別で
これも私は大好きでした。狭い島から広大な南米大陸に移住した人達は世代を
超えて伝統料理を守りました。
昼食はス―プで始まり、その日の焼き立てのパンを一口食べて、 メインに肉か魚、
ウサギ,鶏が主で、海の近くなのに、塩付けした魚を野菜と煮る料理が好まれます。
魚を食べる習慣がなぜか定着していないのは、冷蔵庫のない時代に腐敗を
恐れたからでしょう。最近はス―パでも魚の売り場があり鮮魚なら外国人が喜んで
買います。当初から私は、鮮度のいい魚が近くの漁港から入荷すると買い、
おろしてほしいと頼みますが、店員はそれができません。
ぶつ切りにして焼く、煮る、すべてが大味であり、次第に私は帰国の度に、
いい包丁を買い、自分で調理しました。カジキマグロがよく売られていました。
醤油とワサビを隣の島から送ってもらい、来客の時、大皿に盛り付けして前菜に
出したら、日本人は大喜び、見ていたスペイン人達が試して、、その後は定番に
なりました。
その後には魚店の人も必ず鮮度の高いのを進めるようになりました。主人は日本に
初めて来た時から魅了されて、美味しいビールを合わせました。
日本食のデリケートな調理法と味覚は健康によく、今では世界遺産に登録されました。
ですからカナリー諸島の大きな街で必ず<日本レストラン>が大繁盛です。
魚もしかり、私は、当初から首を落とし、羽根だけを取り除いたニワトリしか
売っていないのに驚いて、魚の調理以前から自分でさばいていました。
台所でも私のD I Yは大活躍で、鮮度の高い食事に恵まれました。
家族揃っての食事はユックリ、その間はさまざまな話題があり、メイン食が
終わると片付けながら、これもユックリとデザート、そしてカ フェソロ、
自家製のワイン等で終えます。
家族を繋ぐ、食事の大切さを、又、情報を共有する暮らしを守っています。
バナナは島の特産品、アボカドと共に輸出先はヨーロッパです。
stay home、、追記
D I Y(do it yourself)で学んだ事は、その後の私達夫婦の暮らしを
心豊かにしました。
改築や改造は、普通新築よりも経済的に負担が大きいと言われますが、私達は
二人とも物質的な点にこだわらず、快適か便利かを日常生活の軸にしていました。
木材や石、素朴な材料が好ましいので、友人や知人が探してくれる材料で十分に
役立ち、どこか個性のある家と庭に仕上がりました。
いい人達に囲まれて頑丈な家に住み、自然がいっぱいの環境で生きたい、、まさに
主人が最初からいい続けた言葉が形になり始めたのです。
2匹の愛犬、Bella&Dozoと一緒にいる意味と喜びが日々の豊かな感情を
増しました。同時に、生き物たちの姿も見えるようになり、ある日はテラスの
木の中でカナリアが巣を作り、卵を産み、雛が育つのを知ります。犬達は
届かないけど、人の気配のする場所を知っていたのです。小さな生命が至る所で
一生懸命でした。
主人は、当初、私に田舎生活のメリット・デメリットを説得しました。
子供の頃の経験から、私は(蛇)がいなければ、、といいのだと言いました。
乾燥した大西洋の気候で(蛇)はいない、しかし、(ムカデ=百足)はいました。
それも、大きな石の下などにいて、工事の人が石を持ち上げたら、約13センチ位の
大きな(ムカデ)がいて、工具で切り離していました。無眼と言われるムカデは
暗い所で潜んでいます。近所のスイス人は捕まえて<瓶>にいれて見せに来たり
しました。窓やドアを開け放しにすると、入ってくる事もあります。毒性のある
唯一の肉食動物ですが、幸いにも被害を受けていません。
現地の人は、島で唯一の害のある生き物として、噛まれたら保健所に行くようにと
教えてくれました。
台所に(蟻)が入ってきて行列ができるのは、管理が悪いから、薬品は使いたく
ないので、レモンや酢を刷り込んで道を閉じました。(蟻)も(ムカデ)も
古代からの生き物、私達よりはるかに多くの生きる知恵を持っているのだと
知りました。
(ヤモリ)は(家守)と同じですか。ラパルマ島で(gecko) や(salamander )と
呼ばれ、大変愛される小さな爬虫類動物です。夜になるのが待たれるのは、
この小さなヤモリが家中のコントロールをしてくれるような気がするからです。
(幸運の前兆)とか(縁起が良い)と現地の人達も言いました。小さな虫、蚊,
蜘などを食べてくれて、家中がきれいになるからでしょうか。
(ラパルマ島のシンボル、土産店の一番の売り上げでしょう)
主人の亡くなった時、主人と両親の遺影をサイドボードの上に置き、朝晩の水、
花、炊き立てのご飯のある時、珍しい果物等、日本のご仏前のような一角を
作りました。
そこには、主人の遺灰の一部もあり、帰国する時に持ち帰る予定でした。
実家で両親が守り続けた習慣を私もこの時から始めたのです。
当初は気がつかなった、、しばらくして、なんと(ヤモリ)が壁をつたい
降りてきて、水を飲み、ご飯を食べているのです!!
時々は2-3匹が一緒で、持ち場があるらしくケンカをしているのです。
なんともほほえましい出来事です。このかわいいヤモリとの絆でも潤うようになり、
留守にする事にも配慮しました。不在中はどうするのだろう、、でも、帰宅して
そこにご飯粒や水を置くと喜んで集まりました。主人がいたら、どんなに
喜んだでしょう、私はこのヤモリとの関りを、愛犬Bella&Dozoと同じように
慈しみました。
すべては、自然の恵み、生き物も植物も、精一杯生きている事をすばらしいと。
私の周辺には無限に、限りなくエネルギーを貰う生き物達がいたのです。
stay home
新型コロナウィールスは短期間中に多くの<新語>を作りました。誰でもが
stay home <お家にいましょう>を理解するようになりました。どちらかと
言えば消極的な印象のある言葉ですが、今年は<stay home>と決めて過ごされた
人達も大勢でしょう。コロナ対策の一環としてこの言葉が大事なのは、その収束が
明確になる迄は必要です。3蜜、手洗い、マスクに加え、さらに<stay home>で
感染防止ができるのなら、引き続き私達の暮らしに取り入れましょう !!
いかに快適に<お家にいる>か、異常気象で長い夏となり、夕立も殆どなく、
UVは100%、皮膚癌も危惧され、重ねてコロナ感染を懸念しながら生活する
人々の強さを敬服しました。台風前の猛暑ではクーラーは終日稼動せざるを
得ませんでした。熱帯夜も続き、クーラーで睡眠をとる習慣ができるのは
避けたいし、不健康だと知っていても利用しました。
各々の工夫と知恵で私達は<新しい生活スタイル>を生み出します。
すでに35年前、私は予想を超える経験に遭遇して、悲鳴を発しながらも、
数年後には、私達夫妻の好みをいかした住まいを作る経験をしました。
同時に<私達の魂>を家の隅々にまで浸透するように努力したのです。
日本からは遥かなラパルマ島、15年以上空き家としてドイツ人経営の
不動産社から売りに出ていた物件を、主人が一目惚れして買った家・古民家です。
1979年、築100年の年に主人はこの家と大きな<ご縁>を貰ったのです。広大な
土地にどんな気候にも耐えるように建てられた家は、壁の厚みが90センチ、石を
積み、繋ぎに砂を洗って埋める、石の大きさと重みは改築にきた若い人にも
持てない重さでした。冬は暖かく、夏は涼しい、暖房も冷房もなかった時代の
家はどの場所もよく考えられ、高い技術がいたる所にあり、私達を完全に
魅了しました。
屋根は一部雨漏り、壁は落ちそうになり、Teakholz<松の木の真中の部分>の
床も歩くと揺れたりしました。
でも、テラスのヤカランダの花は水をまく人がいなくても毎年満開していたのです。
家は人が住んでこそ、、と言われるのはよく理解でき、15年の空間を埋めるのに
要する時間は想像以上です。私達はドイツで働きながら休暇で来る度に、
少しずつ改築する事を選択します。D I Y (do it yourself) の始まりでした。
スペインの築100年の家を、ドイツ式、日本式に改造・改築する、実に楽しい
試みでした。
不在中でも工事を進めるのに材料費を送り、時には騙されたり、さまざまな事を
経験しました。電線と水道は家の近くに来ているけど不在中のため必要なしと
決めて夜はロウソクが20本も立つスタンド、日中に家の中の用事はすませ,
飲み水は5リットルの大瓶を何本も買いそろえます。夕方は海にいき、泳ぎ、
シャワーをして快適でした。
庭の片隅には深く掘った雨水の貯水があり、巾5mx深さ4.5mで蓋をして
いるので夏でも水は冷たく,大事に植物にまき、不足したらタンク車を注文して
給水。雨は秋から冬にかけて降り山の中に貯蔵して島中に配水しますが
当然足りません。掘っても掘っても地下水のでない島です。水は生命、
そのため貴重で買うと高いのです。
<Open Haus>と主人の65才の誕生日会には、友人が東京から来てくれました。
夜空の星があまりにもきれいで、鳥肌が出たと喜んでくれました。
数年後には改築もかなり達成して毎年の休暇は楽しみになり、時々、お世話になる
人達を招いて食事会をします。庭には約30-40人が集まり、パエリア、子豚を焼き
地元のワインでにぎやかな午後となり、ギターやアコーディオンを持ってきて、
歌うローカㇽソングは忘れがたい印象となりました。主人は私達が、遅く始めた
結婚生活、子供のいない事のため、お互いの友人の繋がりから新しい人生を
始めようと言って、来客は現地スペイン人、ドイツ人や、他の国の人達と実に入れ
混じっていました。目標を持ちその方向に歩けば、自然に道が開かれるのだと
知ってうれしかったのです。
いい人々といい家に住む、外国人の私にとっては、異国で多くの人々の支えを
受けて幸せであり、この道を歩こうとした主人に一段と感謝を深めました。
主人自身がドイツ人ながら、当時としては非常にユ二-クな道を選んだのです。
いつでも近所の人達、友人が来て、、と願い、ドアはあいてますよ Feb.1996
初夏に満開となるヤカランダは急成長で見事な青紫色の花をつけました。
数年後、主人は難病を共にしながらも、この島の気候と人々が一層大事だと知り
家の改造をさらに進めたく、家の裏に大きなテラスを作ります。雨の少ない、
常夏のこの地で最後までいたいと願うようになります。夜中でも歩けるテラスは
適当な運動量を維持できて満喫しました。もちろん、大勢の人を招待できるように
設計しました。
母屋の天井の高さが3,8メートルあり、当初ペンキを塗りたい主人は特別に
鉄製の梯子を注文して、ペンキの入ったバケツを持って上がり、数分後には
ペンキの匂いと疲れで休憩、その度に私は降ろしたり上げたり、素人の私達には
大変な大仕事でしたが、天井も床も<Teakholz>でマホガ二色のペンキで
落ち着いた仕上がりになりました。中二階は来客用、老人用の部屋は更衣室、
子供部屋は読書室に変更。
元の持ち主はこの村の有力者でした。使用人がたくさんいて、子供の世話をする
人や、調理、掃除、又、畑仕事をする村の人たちが近くに住むようになります。
ですからこの家の台所には地元の人が珍しがる、オーブンが2か所もあり、
台所もふたつの部屋に仕切られていました。私は主人が動きやすいように、間の壁を
取り外して、大きな台所を計画、食品の貯蔵室は、風呂場に変えました。冬の風の
ある夜、外のトイレに行くのは避けたかったし半盲の主人には危ない事なのです。
空気がきれいから、汚れもなく掃除も簡単、しかし、私一人ではすべてが多すぎて、又、家事全般が増え始めて、現地の夫婦に依頼して、奥さんが掃除、ご主人は
庭仕事を数年お願いしました。掃除の仕方もドイツ式とかなりの違いで驚きました。
台所の横には元来一家が食事をとる部屋がありましたが、私は事務所を作り、
愛犬BellaとDozoが出入りしやすいように考え、夜もそこで寝るようにしました。
ドイツの住宅には必ず地下室がありますがラパルマ島にはありません。物置き場が
少ないのはほんとうに不便ですから、できれば寝室にしたかったのを物置き場に
したらなんと、入る事、入る事、大変便利で大事なスぺースでした。ネズミが
入らないようにその都度のドアーの開け・閉めを注意しなければなりません。
土地の境界線の丘の上から見える家。主人が山で松の苗を拾い植えたのが大きくなり
午後の陽だまりが快適でした。
この家の<宝>となずけたヤカランダの大木は毎年見事に花を咲かせてくれました。
主人も半盲になる前は、敷地の隅々まで歩いて、水撒きをして、植物が素直に
答えてくれるのをなんども、なんども感激したのです。
野菜畑と果物の木を至る所に植え食べきれない時は友人達にあげて、私達の庭に
ないのと交換したり。
どう手をつければいいか見当のつかない異国の土地と家屋を前に、ほんとうに
闘いに似た挑戦を改造・改築に向けた数年、ある年、父の亡き後、母の独り住まいを
主人とたずねた時、写真を見せて、この家の中のペンキ塗りをするよう依頼してきた
のだと話しました。ラパルマ島に帰宅して無事に着いた、と電話したら、
最初に、、大変だったでしょう、、と。それはペンキ塗りの後片づけの事でした。
私達よりも、現場の様子を想像してくれていたのです。
思いやりの深い母の気持ちを忘れません。
無事に生活している様子を母に知って欲しいと願った私達2人の暮らしでした。
美しい花々、野菜、果物、植物全部、たくさんの写真を送りましたが、それでも
自宅の庭やテラスをどんなに見てほしかったか一回でいいから、一緒に歩いて、
触れて、野菜や果物を母の手で摘んで楽しんでほしかった、、、
その想いは永遠に続きます。
長月の満月・ハーベストムーン
Harvest Moon(収穫の月)の意味・語源はアメリカの先住民がつけたのです。
収穫はその日までの労をねぎらう事であり生活を確保します。大地と太陽と
水の恵みを受けて十分な収穫があるのを願い働いた成果です。近代になる迄は、
この繰り返しを人々は延々と続けていて、土を敬う,自然を敬う、そして食を
得る姿勢に向けて謙虚に暮らしました。アメリカの先住民は満月の夜、感謝を
捧げたのでしょう。
9月の満月が近づく頃は、一か月の時間を振り返りました。猛暑でなにも
しなかったような、コロナ自粛で外出も控えて過ごした8月は、それでも、
家族は誰もコロナ感染者にならず元気でした。普通に暮らせた事を感謝します。
満月の前夜、家の中に差し込んでいる光が<月光>と気づいてドキリとしました。明るさが優しくて、連日の気温を忘れるようにホッとしました。台風の予報があったので
満月の写真が写せないかもと考え一夜早くカメラを向けたのです。
99%のお月様ですが、遥かな空から月光は部屋を明るく照らしてくれました。
満月当日は、台風の気象情報の通リ、夜空はドンヨリと暗くなりました。
毎月の満月を堪能する事はここ中都市では難しい現象で誠に残念です。
しかし、日々は短くなり、どこかで夏の終わりを伝える虫たちも啼いてくれます。
次回の15夜は、秋の佇まいを満月の空に堪能できると期待しましょう。
お互いに周知している長い付き合いの千代子さんと政雄さんの存在が、大きな
楽しみを与えてくれます。カナリア諸島独特の景色がお二人のカメラに
写りました。政雄さんは、1970’年代の新しい波に乗ってヨーロッパに移住した
技術者です。ニコンカメラの北欧とスぺインで高い技術を発揮しました。
年金者になっても、現地で若い後輩に講義指導を惜しまない努力家です。
お二人はアウトドア派、共通の趣味を持って至る所に旅行しますが、今年は近場、
それでも、感動の被写体も限りない大自然です。千代子さんの引用をどうぞ。
満月の日が近づくと ”どうぞ今月も顔を見せて下さい” と願い、
ソワソワ気分になります。長月は思いもかけず少々早めにお月様に再会。
暑さが和らいだ8月30日、グアジャデ渓谷(Barranco de Guayadeque)
散歩の帰り道、夕闇の山間からお月様が顔を見せてくれました。
ウチワサボテンの実(トゥナ)とお月様がバランスよく並んでいて、
満月とサボテンのうれしい出会いでした。
猛暑の次は台風、めまぐるしい気候の変化、どうぞ体調を崩されないようお過ごし下さい、とのメールです。ありがとうございます !!
サボテンの実は果物として市販されます。中身が赤と黄色があり、
いずれも、外側にたくさん棘があるので、注意してブラシや松の葉で
こすりました。ジャムにも他の果物と混ぜて作りました。
千代子さん、政雄さん、日本は台風が到来する9月ですが、大きな被害をもたらさないで、と祈りましょうね。コロナ感染もあり、避難所に
行かれる人達の心労はいかほどかと想像しましょう。
無事で、平穏でありますよう!!
入道雲
長い、長い、猛暑の連日を懸命に耐えた8月でしたが、9月になっても気温は
下がりません。
それでも時々、青空の間から入道雲が見えるようになりました。わずかながらも
天気の変化にホッとします。
コロナ対策のマスクも、人の少ない所でなら、はずしていい、、とも言われます。
熱中症の不安、コロナの不安、go toトラベルで小旅行を予定して、波打ち際を
歩いてみたいと思い続けました。大勢の人が同じように思いをはせたのでは??
子供の頃、なんと無邪気に夏の海を堪能した事でしょう !!
(画像は借用しました)
強烈な太陽も,ムクムクと立ち上る入道雲も全身で受け止めて、泳ぎ、塩水の
香りもうれしくて真っ黒に日焼けしたのです。日焼け止め防止もしないで、夜は
背中が痛くて肌がむけて横向きにしか眠れなかった、、紫外線は現在より
強かったのか、それともその逆だったのでしょうか。通常なら夏独特のたくさんの
思い出が蘇ってくるのに、今年はなぜか入道雲を見るまで、暑い、暑いの
連発でした。もう一息、頑張って猛暑を通り抜けたいものです。
<雲の滝>は積乱雲が運んでくる世界でも珍しい現象です。
風の島と言われるラパルマ島で、NHKの撮影班は撮影するのに14日間待って
成功しました。
友人の奈緒さんは、最初から最後まで企画に参加して立派な仕事をしました。
あるいは実際に2016年、NHKの放送を見られた方がおられるかと思います。
真っ白い雲の滝が流れる景色は絶句します。度々、私は車を止めて、その滝の
近くに行き、ヒュー、ヒューと不思議な音を立てる雲の滝の涼しい風を
経験しました。
下記のリンクをクリックして、YouTubeからご覧下さい。
"https://www.youtube.com/embed/E9AqYu9FDCI"
時間は一時も止まる事なく、まもなく台風を迎えますが、今年はなんとか
大きな被害をもたらさないでほしいと切実な願いです。
(画像は借用しました)
ラパルマ島の山火事
今日もテレビは、アメリカ、カリフォルニア州の火事を放送しています。
広大な地域に広がる火事の現状に加えて、特にコロナ感染の問題もあり、
消防士の熱風の中での作業を報道しています。異常気象で雷が原因の発火が至る
所であり、いまだ消火が終わっていません。現場は想像を絶する熱風で疲労度は
倍増します。大自然は惨い傷跡を残し、近隣の住民は災害の惨たらしさと闘います。
とうとう、今年もラパルマ島でも山火事が発生しました !!!
どうぞ、上記のリンクをご覧ください。
今日の報道では消し止めたとの事、黒い山が確認できます。島の北部は特に有名な
カナリー松の群生地、アーモンドの産地、果物も一年中収穫できます。消防車の
到着は遅れ、少ない消防用のへリコプター、消防員もコロナ感染を予防しながらの
作業となりました。
私が、あの美しいラパルマ島で一番恐れたのが山火事でした。毎年夏になると
山火事が起こらないようにと願いました。病弱の主人、2匹の犬と避難する状況を
予想するだけで、又、住み慣れた家を焼かれ、庭の植物が全部焼ける事は
想像さえできなかったのです。
度々、島の別の地域で発生する火事を、地元のテレビで見て、夜の山や村が
真っ赤に炎をあげているのを見た時はほんとうに震えました。急斜面の山は
消防車もたどり着けません。朝になるのを待ち、火事の現場からかなり離れた
ところの植物を伐採して引火しないようにして消えるのを待ちます。
雨の降らない数か月が続き自然は乾燥しきっています。秋になり雨が降る迄、
なんとか火事が発生しないようにと願うある日、買物に行く昼前の車中、山の麓で
黒い煙の固まりの上がるのが見えました。風の強い日でもあり、嫌な予感がして
早々に帰宅しました。
まさに、それは3日も続く大きな火事の始まりで、正午過ぎには、私の家の上に
ある山に引火して、道路は通行禁止となり消火活動が始まりました。一部の家には
避難命令が出て、その人達は体一つで家を後にしました。強い風の向きは火の方向を
一瞬にして変える、、と地元の人達は知っていて、村の男性は全員消火作業に
つき、自宅、近所と区別なく水をまきました。この訓練された適格で早い
仕事ぶりを見て、いかに火事を恐れる習慣があるのか知りました。私の近所の
人達は、私が独り住まいなのを知っていて、家の屋根、庭を濡らすため、
助けてくれました。
急変する火の方向で作業がさらに難しくなるから避難準備をするようにと言われて
自動車に貴重品から食料品、水を摘んで車も進行方向にとめて待ちました。
<市役所からの命令で避難>となり、隣の家族も一緒にと話し合い、火の手が
近くに迫った時に避難しました。家と付近が見える場所で車を止めて3時間位
待ちました。
一度、鎮火したとの知らせがあり、帰宅したら、テラスには松かさの焦げたのや、
小枝の燃えたのが一杯でした。焦げた匂い,灰で酷い汚れなので、水を巻き、
しかし、風に吹かれて灰がすぐ吹き溜まりました。火事で辺りは一段と熱くなり、
気温も50度位でした。夜になると、残っていた火が再び燃えて、家の100m位の
所まで燃え始め大きな松の木がメラメラを燃えているのです。夜は行動範囲も
狭くなるので、もう一度避難の支度をしました。外国人は殆どの人がホテルか
海岸で一夜を過ごしたと後日聞きましたが、私は大事な家を守りたい一心でした。
翌日からは、庭の隅々を調べ、家の掃除を数日欠けて、嫌な焦げ跡の匂いを
取りました。着の身着のまま、靴も2日間脱がず、身体にしみついた煙の臭いは
数日間、取れないような気持でした。
一瞬たりとも気を緩められない強烈な経験でした。
その時の火事は日本のテレビでも報道されて、当日、次の日と問い合わせが続き、
お礼の時、話すともう一度、恐怖感が戻り、自然発火であれ、人災であれ、
この島の火事が現地でいかに恐れられているのか再度知りました。
友人は、私に力をだせ、、とイラストで励ましたくれました。
日本に住むようになって、いまだ大きな火事に遭遇しないのを幸せだと思います。