ヨーロッパと日本の私

ヨーロッパで体験した事、等々

亡夫の祥月命日

<Schoener Mai=すばらしい5月>の中旬を過ぎる頃、私は時計が逆回りしている

ような錯覚をしながら、亡き主人を偲びます。ほんとうに、数えきれない悔恨や

思い出が驚くほどです。あらたな自分に気づくのも含めて、人が巡り合う、、

不思議な<縁>を感じるのは、きっと、どなたも、経験される思いでしょう。

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14年は短くも長くも、、一人残された私の月日は今年も巡ってきました。

その間には私達夫妻が子供の用にかわいがった愛犬2匹も逝き、住み慣れた

家や場所、友人達とも別離して、ヨーロッパをたたんで、本帰国したのです。

しかし、ある時はその時間は遠い距離となり、又、ある時はすぐそこにあります。

過去と思い出だけでは空しい、余力を絞り,余生を主人の分もしっかりと生きようと、

考えていますが、さすがに、祥月命日の頃は落ち着かないのです。

 

まさに、天と地がひっくり返ったような発病から、実に15年以上の闘病生活を終えて

亡くなった主人は、体調のいい時期は別人のように人生を満喫して、又、悪化すると

落ち込んでしまい、私などの支えは全く役に立たなかったのを、今でもはっきりと

感じます。看病はどなたの場合も当事者でしか、分からない苦しい現実です。でも私は

いつも病人が一番苦しいのだと確信していました。私自身が娘時代から大病を経験して

狂ったように悩んだので、主人の支えになるかと自負して、2人3脚でやってみようと

提案したのです。

ドイツで発病して、ラパルマ島の家で暮らしたい意向は、本人の中に極めて強い思いがありました。しかし、当時の現地の医療状況はドイツに比較すると雲電の差でした。

https://www3.gobiernodecanarias.org/sanidad/scs/organica.jsp?idCarpeta=

www3.gobiernodecanarias.org    ( 新しくできた病院、家から約25km,山を越えて走ります)

 

住民は診療所で診察を受け、手術、入院などは、隣の島テネリフェの病院に船か飛行機で行きます。住民には家族や親戚、友人がいて、滞在できますが、私達は数年ドイツとラパルマの間を行き来しました。その頃、島にも新しい病院が開設、スペイン人、南米の医師が赴任し、麻酔医と看護師の各一人がドイツ人でした。通訳のためでしょう。

 

徐々に主人は、ドイツ行きの片道4時間半の飛行時間がきつくなり、又、車いす

使うようになり、その手続きが往復のフライトに必要であり、自宅から空港までの

片道35kmの送り迎え等、すべて依頼する事もあり、私達はダンダン疲れていました。

そして上記リンクの病院にお世話になります。一時は診療所から医師と看護師が自宅

訪問の期間も続きました。重なる病状は私達を不安にするばかりで、当時はドイツ人の看護師に話し相手と看病のため来宅を依頼しながら、私は周りの人達の助けがなかったら、当然乗り越えられない苦しい看病の日々を続けましたが、最後は強い痛みがでて

入院しました。 

その日は、主人のベッドの側にある簡易ベッドで寝るため、母犬のベラと娘犬のドーゾ

に留守を頼み、夕方病院に着きました。それまで2人部屋にいた主人がいないので聞いたら一人部屋に移ったと。すでに、主人は数日食事もとれず、昏睡状態でしたが、時々、犬の事、家の事、私の母の話,日本に行った時の事などを話します。

とぎれとぎれでも、どんなにうれしい会話だったでしょう。その夜も期待をしていた私は、普段と違う雰囲気に気づきつつ、ベットの横のヨーグルトを食べないかと思い、

スプーンを口に近づけましたが、目も口も開かないので、看護師を呼び、見てほしい

言いました。彼女はすでに知っていたのでしょう。首を軽く振って<no mas=ダメ>と言い出て行きました。

病状はひどいけれど、いきなり、死に至る、とは思っていなかった、あるいは思いたく

なかった私は、机の上の水を口にくわえて、最後の一滴を上げたいと思い、主人の口に触れた途端に、血がドッとふき出て、、即、ベルを鳴らしたのです。

<死>がこの瞬間なのか、ブルブル震えるばかりでした。私は、それまで自分の直ぐ

そばで、両親さえも、最後を看取った事がなかったので理性を失いました。

駆けつけた看護師達は、直ぐに主人の口にガ―ゼを含ませ、実にテキパキと仕事を、

私は主人の側で、友人達に電話をしました。ちょうど、その日は<dia de canaria >

祭日の夜10時過ぎ、皆は在宅中、15分後には駆けつけてくれた友人、その間にも

遺体は別の部屋に移動していました。一体、どうなっているのか、どうしてなのか、

一人部屋に移動したのは、最後の一日だと病院側は知っていたのでしょうか。

なぜ、早く来なさいと電話をくれなかったのだろう、、後日はあの瞬間を繰り返し思い起こすばかりでした。夜の遅い時間に友人達は安置部屋に集まり、私を慰めてくれました。その夜、家に帰るのに自分で運転したのか、どうか、今でも記憶がありませんが、

多分、カルメンが運転して、その夜は私の家に泊ってくれたのです。彼女は長い、長い付き合いで掃除を手伝ってもらい、なにかあると、いつも頼みごとをしていた人です。

 

スペインの小さな島の病院で外国人(ドイツ人)が逝く、予知は持ちながらも、すべて初めての事です。常から私達は外国にいる事もあり、万一はあり得る事も考慮して

(火葬)を二人とも希望していました。

早朝、El Pasoの約2kmのあちこちに(死亡通知)が公布されたと聞きました。

亡くなった夜か次の朝遺体は、El Pasoの葬儀社に移動して、午前10時から一般の

訪問者を夜10時迄受け付けると聞きました。これは日本のお通夜で、次の日が本葬、

午前10時から午後3時頃迄、弔問客が続いてそれから火葬場に移動しました。

電話もなかった頃は、一番早い知らせを葬儀社が住民に知らせた習慣が今もそのまま

です。人々はいち早く、葬儀社に駆けつけて、喪主の私にお悔やみをくれました。

泣きはらした顔、取り乱したままの数日が始まりました。

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住民が約5000人のEl Paso唯一の葬儀社の中も、道路にも<主人の死>を悼む人々で埋め

尽くされました。それは、主人の人柄を、生存中のお礼をしたい人々であり、後日の話では、それまでの外国人の葬儀で一番多い弔問客だったとの事です。外国人が地元の

人に愛されて一緒に暮らす事、大変難しいし、浸透しきれない事なのでしょう。

現地の習慣では、葬儀は死後3日間で殆ど終わります。火葬を希望する人も増え、

それまで、テネリフェ島に移動した不便もあったので、新しい火葬場ができました。

午後、遺体を乗せた車と、その後に続く家族や友人達の自動車で約2kmの移動は

長い行進となりました。主人は、この新しい火葬場で9体目だと聞きました。

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 (一足先に行くよ、後で会いましょう)とユ―モアの好きな主人の別れです。

 

ドイツ人の友人達は火葬場から、帰宅する私が一人にならないよう、ケーキを作り、

午後の遅いお茶会を考え、勝手知る私の台所でテキパキと用意をして、テラスで

15人位でお悔やみを続けてくれました。

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     (Las Macnhasの火葬場と埋葬を終えた主人の墓地)

翌日、葬儀社から<遺灰>を保存している事、次の日に、El Paso市営墓地で

最後の別れをする事を聞きます。すでに、死亡通知に全予定も記録されているので

墓地には、なんども私を最初から同伴した友人や近所の人達で一杯でした。

私は主人がドイツでなく、外国で最後を迎えたのを配慮して、プロテスタントの牧師にミサを依頼しました。ご両親と近い天国にたどり着いてほしいと願ったのです。

 

火葬をした人のために作られた小さな墓地が数段階にできていて、主人は最下段の

真中、遺灰の壺が入り、私は膝をついて別れをしました。人々は、一人づつ、花や言葉を主人と私に伝えてその日のすべての予定を無事に終える事ができました。

 

長い、長い、苦しい数日が過ぎました。ポカンと大きな穴が開き、疲れも喪失感も

ドンドン押し寄せてくる間にも、主人の姿が、人格が、はっきりと理解できるように

なり、出会った、共に生きた年月を思い、私は心から、尊敬して、感謝をしたいと

思うのでした。この感情は当時も今も少しも変わりません。

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        (主人の大好きだった赤いカーネションです)

 

  ** 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 合掌 合掌 合掌 **