フロリダのビギー(Bigi=Brigitte)、、
、、からも(WhatsApp)で絶えず、動画を添えたメールが入ります。3月生まれの
彼女に私は毎年お祝いをしています。日本で住むようになってからも、誕生日のお祝いの言葉を送る、長い年月の習慣をできるだけ続けようと思い始めたからです。
それは、外国滞在中に知り合い、ほんとうに自分の事のように惜しみなく、私を助けてくれた人達だからです。ヨーロッパのキリスト教の基礎にある<愛・慈悲・誕生>の
思想が現在までしっかりと継がれている習慣を尊重したいとも思うようになりました。
各国との時差は、夏時間と冬時間もありますが、通常、誕生日のお祝いは、生まれた日の午前0時前には禁じられているので、相手が生まれた日になるように配慮します。
youtu.beBigiが尊敬した<Steve Jobsの最後の言葉>動画を添えていました。
フロリダに住んでいるビギには、少し遅れて電話しました。今日で71才になったのと、
45年前と少しも変わらない声で、ドイツ語がドンドン膨らんできて、私達は長い会話を十分楽しみました。コロナのニュースを日本とドイツに関して特に気をつけてみて
いるからとの事です。コロナでマスクが必要となった時、最初に<作り方をyouTube>
日本語版で探して知らせてくれました。そしてこの人とも、今後も過ぎた日々を話す相手だと気付いて有難いと思います。
アメリカはもちろん、世界中に有名なマイアミビーチです。
このBibi こそが、私のDuesseldorfの住まいを見つけてくれた人です。彼女は当時
すでに日本企業で5人の駐在社員の秘書として働いていました。すべての事を手探りで立ち上げた当時の日本人社会は、現地の社員を必ず必要としていました。彼女は
実に明るくて好感が持て、面接で直ぐ採用となったそうです。条件は英語,ステノが
できるのが最低条件、しかし、仕事の量は想像以上に多く連日残業をしていました。
駐在員の家族がドイツに引っ越しして来る時は、住まい探し、登録、入学、車の買物、
夥しい雑用をこなし、奥様達の生活が早く立ち上がるように一緒に外出、インテリアの
お世話もしていました。後日になれば、どの家庭も喜んで、Bibiを招待しれて、
又、彼女もよく招いて、折々私も同席、日本人家族と親しくなりました。
私達は週末になるとライン川を歩きました。
当時、Hapag-Lloyd Reisebuero Duesseldorf 支店で働き始めて3-4年たった頃、
私は営業を担当して、旅行者のバイブルともいえるABC(A4・5cm 厚さの本)を
持って訪社、その会社の出張者の飛行機の予約を一緒に計画して、帰社すると電話で
各Air Lineに予約してチケットを発券しました。その内、ビギー は私が会社に来るのを喜び、次々と顧客を探してくれたりしました。当時は日本人もドイツ人もお互いの
距離をいかに近くに置くか、現在は想像もつかない(助け合う精神)があったのです。
私が住まい探し中と知り、自分の住んでいる下の部屋が空いたから、と大家さんと交渉
してくれて、即刻入居となり,複雑な手続きも心よく助けてくれたのです。
ほんとうに、感動してこのタイミングと幸運を永久に忘れたくないと心に刻みました。
お互いは出会う相手との生活で変わり、Bigiはアメリカに行き、New York から
フロリダへ、そこで、アロエのドイツ向け輸出会社を経営するドイツ人に会い
結婚しました。その人とは写真だけの知り合いでした。
ドイツにいた時、真夜中に電話やベルを鳴らして、来てほしいと言われ彼女の
部屋に行くと、いつの頃からか、自分は拒食症になったと、青ざめて泣きながら
話すのです。後日、その難題解決を含めて渡米したのだと思う私でした。問題性は
場所を変えても、変化しないと考える私ですが、当時はみんな若かったのです。
ドイツ人との結婚生活は大変幸せな時間でした。プール付きの大きな家に住み、時々
彼女は思いついたら、ラパルマの私に電話をして近況を話してくれたのです。
数年後にご主人は彼女の看病を受けながら亡くなります。一人残された彼女は
徐々にアロエの事業を引き継ぎますが、長年の拒食症の影響か腎臓病になり、その
移植をします。アメリカ人の腎臓で元気になったと、感謝していました。
さらに<癌>になり戦う数年、食事、生活、すべてを切り替えて、去年、5年目の
テストで癌完治と朗報を受けたと、涙で話す電話でした。
ドイツのご両親にも大変お世話になった私は、亡きご両親に会いたいだろうな、と
思いますが、日本人の私のセンスなのかもしれません。
金髪で青い目の典型的なドイツ人女性、日本食が大好きで、毎日お豆腐を食べます。
どこにいても、健康があれば、幸せを見つけて、毎日を大事に、、ねぇ、と、
私達の話題のテーマです。