豚饅頭
体調を崩しての休養中に、友人から (小花のブーケと豚饅頭)が届きました。
まさに、この年令でも(花より団子)、と懐かしい豚饅頭=豚まんを頂きました。
一年に2-3回、お店の前を通る時、行列がなければ買うぐらいでしょう。
ですが、この度はこの豚まんの味が懐かしく、又、美味しくて感激しました。
真っ赤な色の箱が大阪名物になり、その名前も味も確かであることを示すロゴです。
店頭で湯気の立っている蒸し器を見ているだけで、幸せな気持ちになり、
その真っ白い丸い形は不思議に魅力的です。もちろん、その味は,トロリと
した豚肉と玉ねぎの兼ね合いで、真っ白い皮に辛子を少しつけると一段と
引き立ちます。
子供も大人も、ほゞ誰でもが馴染んでいる大阪発のすばらしい味覚です。
珍しい名前の由来を知りたくて調べたら、、、 5(コ)5(コ)1(一番)の味と
サービスを目指そう、、当時から現在も使われている電話番号からヒントを
得た創立者のアイデアとあります。75年の歴史を作った大阪魂の商法では
ないでしょうか。
全国に向けて通販網は広がり、日本人にピッタリと寄り添う(食)を作り上げた
発想に敬意を表します。
当時のままの、手ずくりの細やかな作業工程を、私は時々店頭に立って
見物します。機械化されない、これも優れた日本式(ものづくり)の一例だと
思います。
短い時間にいくつの豚まんを作るか、かなりの訓練が必要でしょう。立ちづくめで
働く人の額には汗が滲んでいました。木製の大きな蒸し器を4-5段重ねて蒸すと
ほのかな湯気が立ち、早速食欲をそそります。手際よい仕事ぶりが店内に
みなぎっているのです。このすべては、作り方も、味も、個人の領域をはるかに
超えているから、ますます(お土産)No.1 になったのではないでしょうか。
大阪天満橋に(松阪屋)があり、地下の食品売り場の一角に(蓬莱551)の
売り場があった頃、私達夫妻が初めて家族を訪ねた時、ドイツ人の主人は、
日本に関して、かなりの知識は持っていましたが、生活する数週間はすべてが
未知の事でした。その時は5週間滞在して、食事、暮らし、旅行、訪問、見物と
かなりの予定でした。私は現役時代、営業のため、母に主人と過ごすよう頼んで
出張も兼ねた訪日だったのです。
帰宅すると、なんともうれしそうな、誇らしげな主人の顔でしょう。話は
止まらずに母と二人で松阪屋の(蓬莱551)で豚まんを買ってきて、
ランチにしたと、、。
思えば、ドイツ食には、この豚まんに似た料理は多分はありません。
私自身、忘れそうになるすばらしい日本の味覚を説明しないで訪日したのです。
主人は、滞在中になんども母と松阪屋に行き、その度に母に大川のオゾンを
吸ってもらうよう歩くのだと自信一杯でした。それは、本人自身が、自身の母と
そのような時間を持てなかった過去の想いと、心の通じた私の母への、私の家族への
感謝だったのかもしれません。
2度目の訪日で私達は婚約の知らせを家族全員に揃ってお祝いして貰いました。
その頃、日本企業も500社近く、日本人学校も約1000人の生徒が在校する街に
なったDuesseldorf市の(Alt Stadt-旧市街)に日本レストランが開店、なんと店頭に
豚饅頭を「蒸籠」で蒸して売り始めました。レストランに入らなくても、
豚まんだけ買えるよう工夫したのでしょう。ある寒い夕方、仕事の帰りに
見つけた時の私達の驚きと感激を想像して下さい。
ドイツでは「立ち食い」が簡単にできます。
早速私達も立ち食い、お店の人と話しが弾み仲良くなり通い続けたのです。
豚まんの後は2軒向こうの(Altbier=黒ビール)を飲む定番コースとなりました。
友達に伝え、でなくても、珍しい国のレストランができると好奇心いっぱいの
ドイツ人は、その後いつも行列を作って待つ人がいる有名店になりました。
庶民的な場所に親しみやすい雰囲気とオイシイ味覚で日本の別の顔を
見事に広めたのです。
市内には、高級レストラン(日本館)が1960年代に開店していて、企業や招待客に
大事な交際の場でした。主人は当時から独日協会の会員であり、報道関係者でしたが、この豚まんの庶民的である魅力に取りつかれたのでしょう。
その後も、大阪蓬莱551の発想と成功を
度々話し合う私達でした。